メメントモリという言葉があります。「死を忘るるなかれ」、つまり「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」といった意味の警句とされます。幼い頃祖母の死を経験し、自分が死ぬことを知り、死を恐れました。それ以来、自分が死ぬ存在であることを忘れたことはありません。メメントモリが、心の片隅にいつもありました。歳をとり、死は、私の背後に迫ってきているように感じます。ちなみに私は今、健康です。
自分の意識の中に死が現れては消えます。死を思うことは気持ちのよいことではありません。そうか、私にとって、死は重荷なのかも知れないと考えました。キリスト者ですから、神の国に迎えられるという希望がありますので、死を恐れることはありませんが、慣れ親しんだこの世を去るわけですから、これは一大事というべき事態です。その時が近づいたら、人々は覚悟を決めてその時を迎えると思います。いつか覚悟をしなければいけないものを抱えることは気持ちのいいものではなく、これは重荷だと考えました。重荷といえば思い出す言葉があります。
マタイ 11:28~30
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
「わたしの軛を負いなさい」「わたしの荷は軽い」と主イエスは言います。さらに「わたしに学びなさい」と言います。主イエスは自覚的に十字架の死に向かって歩みました。その死が神の御心に従う死であると受けとめ、十字架の死を死にました。主イエスに何を学べばよいのでしょうか。
老いの中にあって、私が意識してきたものがもう一つあります。人間の生きる目的は何かということです。これについてウェストミンスター小教理問答は次のように答えます。
人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
神に栄光を帰し、神を喜ぶこと、それが主イエスの軛を負うことであり、主イエスから与えられた軽い荷であると受けとめました。このことを深める、それが老いを生きる今の私の課題です。