日曜日の朝、訃報が届きました。祈祷会に共に出席しているひとりの姉妹の死です。長年病いと共に信仰の歩みをしてきた姉妹です。個人的に話したことはないので、どんな思いをもって歩んでこられたのかは知りませんが、自分の死を見つめて歩んでこられたことは間違いないと思います。
70歳も後半に入り、訃報が届くたびに自分はどのような希望をもって生涯を閉じるのかと考えます。私の心の中には一つの戦い、信仰の戦いがあります。悪魔は、神の国などないとささやいてきます。私はそれに対して、聖書は真理を語っており、神の国を信じる根拠は十分にあると自分に語ります。聖書が語る真理を積み重ねて、不信仰を論破するわけです。
エフェソ 6:13~17
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
聖書が語る真理の一つは罪です。現代の世界に起きているあらゆる問題の根っこにあるのは人間の罪です。罪に言及することなく、問題の解決を図ろうとしてもむずかしいのが現実です。殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、むさぼってはならない、との十戒の戒め。これが破られる、それが世界の現実です。どんなに人間を教育しても、教育が世界を変える成果をもたらすとは思えません。過ぐる20世紀、人間として生まれた人の大半は教育を受けました。でも世界は変わりません。
聖書が語る次の真理は、受肉です。つまり神の子が人となったことです。そして十字架で死に復活したという聖書が告げる救いの出来事です。人間を罪から救う方法は何か。神が考えた方法は、この御子による救いです。このような救いを考えだし、実行し、人間を救うのが神であるという聖書の主張。聖書の神はすごいと思います。
今、思い巡らしている真理は、人が神の国に迎えられるとき、イエス・キリストに似た者とされるという真理です。
ローマ 8:29
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。フィリピ 3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
キリストを信じる者をキリストに似た者を目指す者としてこの世に遣わすという神の計画、そのようにして世界を変えるという神の計画。これは人間が考え出すことのできないものであり、神の存在を証しするものと考えています。
老いて聖書を思いめぐらし、希望を得ることは老いの恵みです。