先日、無牧の教会の礼拝説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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聞いていただけるとうれしいです。
以下は原稿です。
創世記 3:1~15
説教 罪と救いの約束
→聖書が告げる救いとは何からの救いなのでしょうか。
イエス・キリストは私たちを何から救う方なのでしょうか。
言うまでもなく罪からの救いです。
罪がもたらす結果としての神の怒り、滅びからの救いです。
イエス・キリストを信じ救われたからといっても、
私たちは罪を犯します。
私たちは罪とどう向き合ったらよいのでしょうか。
それが今日のテーマです。
1.神を思わぬ罪、自己優先の罪
→今日は創世記の3章を説教テキストにしました。
聖書によれば人間は神に創造されました。
人は神の似姿、神にかたどって造られました。
それは人が、神との関わり、神との交わりに生きる存在であることを示しています。
それは神にかたどって人間が造られたとき、
男と女が造られたことで分かります。
男と女は互いに関わって生きていきます。
バラバラに、別々に生きていくのではありません。
そのように人は神なしに生きるのではなく、
神と共に生きるように神に造られました。
→彼らには生きる場としてエデンの園が与えられました。
エデンの園には、自由にとって食べることのできる木の実が沢山ありました。
彼らは食事という点では何一つ不自由はありませんでした。
神は彼らに一つ命令を与えました。
「園の中央にある善悪を知る知識の木からは決して食べてはいけない」。
そして「食べると必ず死んでしまう」と警告を与えました。
善悪を知る知識の木の実なら、
食べた方がよいのではないかと思う人もいるかもしれません。
しかし神は食べることを禁じられました。
→ある日、蛇がやってきて女に言います。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。
この蛇は悪魔を表していると言われます。
悪魔は人間に罪を犯すように働きかける存在です。
悪魔の存在など信じられないと言う方がおられるかもしれません。
神を信じる者に罪を犯すよう働きかける力が現実にあります。
聖書はそのような力を悪魔の働きと呼んでいると思います。
→「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。
こう言われて女は答えます。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、
食べてはいけない、触れてもいけない、
死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。
すると蛇は言います。
「決して死ぬことはない」。
神が明確に語られたことを否定します。
神は「食べると必ず死ぬ」と警告しました。
しかし蛇は「決して死ぬことはない」と言います。
神の言葉を疑わせたのです。
神の言葉を疑わせる、これは悪魔の働きです。
→蛇はさらに言います。
「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。
神は人が神のように善悪を知る者となることを願っていないのだと蛇は言います。
神は意地悪だという印象を与えます。
神に対して悪い印象を与えるのは悪魔の常套手段です。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうでした。
目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていたとあります。
そしてついに手を出し、取って食べてしまいます。
一緒にいた男にも渡したとあるので、
二人とも食べてしまいました。
二人とも神の命令に背いてしまいました。
→木の実を食べる、それは行為としての罪、
目に見える形で現れた罪でした。
しかしその時、彼らの心の中には自分の思いを優先し、
神の御心を軽んじる思いがありました。
悪魔と語り合う中で、その思いが生じたのです。
自分の思いを優先し、神を軽んじる、
これは思いにおける罪です。
これは根本的な罪です。
この思いは様々な罪とされる行為を生み出します。
→神は「食べると必ず死んでしまう」と警告しました。
蛇は「決して死ぬことはない」と言いました。
どちらの語ることが正しいのでしょうか。
禁じられた木から食べた男と女は、
死んだようには見えませんでした。
→しかし彼らが食べた後、彼らの中で何かが変わりました。
何が起きたのでしょうか。
しばらくすると風が吹き、
主なる神がエデンの園を歩く音が聞こえてきました。
すると二人は、神の顔を避け、木の間に隠れました。
食べる前は、神がそばにいてもなんともなかったのに、
今や神を避けるようになりました。
人は神との関わり、神との交わりに生きるように造られたのに、
今や彼らは神を避けるようになりました。
罪に対する神の怒り、裁きを恐れたのです。
神から離れて生きる人間を、聖書は死んでいると言います。
「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。
→彼らは神から、食べるなと警告された木からなぜ取って食べたのかと問われました。
彼らは自分の罪を認めることなく、責任転嫁をしました。
女は蛇のせいにし、男は女のせいにしました。
ここにおいて男と女は、自分が自己中心的であることをはっきりと示しました。
彼らは神の御心より、自分の思い通りに生きていきたいとの思いに囚われました。
この思いこそ根本的な罪です。
彼らはこの罪に囚われ、罪に支配される者となりました。
神はこのような人間を死んでいると見るのです。
そしてこのアダムとエバは、あなたのことであり、
私のことであると聖書は語ります。
2.人間の創造の是非
→神が造られた人間は神の命令に従いませんでした。
神が人間を造られたことは失敗だったのでしょうか。
神に背き、罪を犯したのです。
人間を造られたことは決して失敗ではありません。
なぜなら、神は人間に自由を与えたからです。
→人間に自由が与えられているということは、
人間が神に逆らう可能性があるということです。
そのことを神は承知していました。
人間が自己中心的になり、神を軽んじるのは
神にとって想定内でした。
そこで人間の歴史の中で、
人間が自由な心で、自ら進んで神との関わり、
神との交わりに生きるようになることを
神は願い、神は計画を立てられました。
神の民としてイスラエルの民を選ぶこと
そして救い主メシアを世に送ることを神は計画されました。
→15節。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
→お前とは蛇。悪魔を指します。
女の子孫とは、やがて歴史の中に登場する救い主、メシアのことです。
具体的にはイエスです。
悪魔はイエスを荒野で誘惑し、イエスの働きを妨げます。
悪魔はイエスの弟子のユダの心に入り、イエスを裏切らせ、
イエスを死に至らせます。
イエスは救い主として働きますが、十字架で死にます。
しかしイエスは悪魔の働きを砕きます。
キリストを信じる者は、悪魔の働き、罪の攻撃から解放されることとなります。
人間を創造したことは決して失敗ではありませんでした。
3.罪との向き合い方
→神を軽んじ自己中心的になる罪、
自分の思い通りに生きようとするこの根本的な罪は、
人間が生きている限り、人間の心からなくなりません。
そこで信仰生活を続ける中で、自分の罪深さを知るようになり、
信仰者である自分を情けなく感じたり、
自分はどうしようもなく罪深いと考えることがあります。
この根本的な罪があるからです。
→信仰生活を続ける中で、この自分の罪深さを知るようになることは実は恵みです。
自分を否定的に見たり、信仰者としての自分を卑下したりする必要はありません。
自分の罪深さを知ることは、罪と向き合うことを教えます。
自分は罪深い人間なんだと諦めるのではなく、
信仰者として、罪と向き合うことは神の恵みです。
キリストによる救いの恵みがあるからです。
→罪と向き合うとき、三つのことを覚えることが大切です。
- 信仰者には、罪との戦いがあること
- それは信仰者にとって有利な土俵での戦いであること
- さらに聖霊の導き、助けがあること
→まず、罪との戦いがあります。
ガラテヤ 5:17
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
肉の望むことと、霊の望むことが対立しているとあります。
肉の望むこととは、自己中心的な自分が望むことです。
霊の望むこととは、信仰に生きようとする自分が望むこと、
この望みは聖霊の導きに基づく願いです。
私たちの心の中は戦場になります。
神さまの御心に従いたいとの思いと、それはいやだとの自分の本音との戦いです。
罪と戦うことを諦めたら、私たちは罪を犯すことは仕方のないことと考えてしまいます。
でも罪が赦されるからそれでいいやと考えることは、
罪に敗北する人生を送ることになります。
これは神さまの御心ではないと思います。
→第二に罪との戦いは、私たちに有利な土俵での戦いです。
ローマ 6:22
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
あなたがたは罪から解放されてとあります。
罪から解放されているとは、罪を犯さなくなるという意味ではありません。
私たちは罪の支配下から抜け出たということです。
罪を犯すように働きかける力は絶対的なものではなくなったというのです。
さらにキリスト者は御子の支配下にあります。罪の支配下ではなく御子の支配下です。
コロサイ 1:13~14
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
私たちは御子によって罪の贖い、罪の赦しを得るだけではなく、御子の支配下にあるというのです。
キリストが私たちの味方として共にいてくださるということです。
キリストが味方として共にいてくださるという有利な土俵で私たちは罪と戦います。
→第三に、聖霊の導き、助けがあります。
今日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝を献げています。
復活されたイエスは天に上げられる前に弟子たちに言われました。
使徒 1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
弟子たちの上に降った聖霊は、私たちの内においでになります。
洗礼を受けたとき、私たちは賜物として聖霊を与えられました。
聖霊は、み言葉に従いたいという願いを私たちの内に起こします。
そしてみ言葉に従う力を与えてくださいます。
私たちがみ心に従いたいと真に願い、助けを求めるときに、
聖霊は私たちを助けてくださいます。
使徒パウロは語ります。
ガラテヤ 5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
霊の導きとは、み言葉に従いたいとの思いを私たちに与えることです。
これに従うとき、聖霊なる神は私たちに力を与え、
御言葉を行わせてくださいます。
私たちは自分の罪とどのように向き合ったらよいのでしょうか。三つのことを覚えたいと思います。
①信仰者には、罪との戦いがある。
②それは信仰者にとって有利な土俵での戦いである。
③さらに聖霊の導き、助けがある。
祈ります。