「敵を知り、己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」。
これは聖書の言葉ではありません。中国の古代の兵法書にある言葉として知られています。罪との戦いに勝利するためにも当てはまる言葉です。罪との戦いを考える時の敵とは、頑なな自分ではなく、心の弱い自分でもなく、聖書によれば悪しき勢力です。それは人間ではなく、目に見えない霊的な力を持つ勢力です。
創世記3章に蛇が登場します。蛇はエバに話しかけ、その結果としてエバそしてアダムは、神の命令に逆らってしまいます。蛇との会話がきっかけで彼らは罪を犯したのです。蛇が登場する前は、彼らは園の中央にある善悪の知識の木の実は食べなかったのです。しかし蛇が登場しエバに語りかけ、エバは蛇と会話し、その結果として神の戒めに背いてしまいました。この物語は人間に罪を犯させようとする力が存在することを教える物語となっています。
イエス様はその活動を始められる前に荒野に行かれました。それは霊の導きとあります。イエス様は聖霊の導きにより荒野に行き、そこで悪魔から誘惑を受けられました。人間に罪を犯させようとする勢力を聖書は悪魔と呼んでいます。神の働きをする者には誘惑はつきものです。妨げようとする力が常にあるのです。
マタイ 4:3~4
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」。
イエス様が弟子たちに御自分の苦難と死を告げたことがありました。
マタイ 16:22~23
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。
イエス様が十字架に向かう道を歩むことを語られた時、ペトロが「そんなことがあってはなりません」と言いました。ペトロの気持ちは分かります。イエス様が殺されてしまうなんてあってはならないことです。するとイエス様は「サタン、引き下がれ」と言われました。聖書は悪しき勢力を悪魔とか、サタンとか呼びます。イエス様を裏切ったユダについても聖書は語ります。
ヨハネ 13:2
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
聖書はこのように人間に働きかけ、罪を犯させようとする力の存在を語ります。その存在は目に見えませんし、現代人から見れば、悪魔の存在を信じるなんて理性ある人のすることではないように思えます。
ペトロ一 5:8
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。ヤコブ 4:7
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
このような聖書の言葉を目にする時、悪魔の存在を考えざるを得ません。悪魔は見えないし、その働きも見えません。神も見えないし、神の働きも目には見えません。神は信じるのに悪魔は信じないというのは真理に対して心を閉ざしているような気がします。
罪との戦いにおいて真の敵は、悪魔・サタンです。敵をはっきりさせることは罪との戦いにおいて大切なことです。敵は自分の頑なさでもなく、自分の弱さでもなく、自分の罪深さでもありません。