クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

昨日、和歌山県のG教会に説教の奉仕に出かけました。台風が近づいていて雨が予想されました。バス停まで10分歩くので、雨が降っているとズボンの裾がビショビショになるので、雨が降らないことを願いました。
幸い、出かけるときと帰宅するときは、降っていなくて感謝でした。

5月27日にG教会で行った説教です。


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聖書 ルカ 5:1〜11
説教 神の語りかけに応答する
2018/5/27
→今日の聖書の最初に「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると
神の言葉を聞こうとして、
群衆がその周りに押し寄せて来た」とあります。
「神の言葉を聞こうとして」とあります。
「神の言葉」って何でしょうか。
神の言葉だから、神さまが語られる言葉、という意味になります。
でも神さまって語られるのでしょうか。
日本人で神さまが語るなんてことを思っている人は少ないと思います。


→奈良にある春日大社。沢山の人が参拝に訪れています。
あるいは東大寺とか、薬師寺とか、お寺に参拝する人も沢山います。
手を合わせて祈る人は沢山います。
自分が祈っている神が自分に語りかけるなんて、
誰も想像していないと思います。
もし語りかけてきたら戸惑ってしまうのではないでしょうか。
でも今日の聖書には、「神の言葉」とあります。
聖書が証しする神さまは、人間にりかける神なのです。

→聖書が伝える神さまは、人間に語りかける神です。
今日の聖書でも人々は、
神の言葉を聞こうとしてイエス様のもとに来ました。
私たちも神さまの言葉を聞くことができるのでしょうか。
聞くことができるとすれば、どこで、
どのようにして聞くことができるのでしょうか。
それとも聖書を読めば、信仰のことは分かりますから、
神さまに聞く必要はないのでしょうか。
神さまは聖書の時代には語られましたが、
今はもう語られないのでしょうか。
どう思いますか。


→聖書が伝える神さまは人間に語りかける神です。
人間に語りかけ、人間に応答を求められる神さまです。
人間とのコミュニケーションを求める神さまです。
神を信じるとは、
この神のコミュニケーションに応じることを意味します。
神社やお寺で手を合わせる人たちは、神に願いごとをしています。
彼らは自分の願いを聞いてもらえば、それでよいのです。
でも聖書の神は、コミュニケーションを求める神です。
人間との関わり、人間との交わりを求める神さまです。


→創世記12章の最初で神はアブラムに語りかけます。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、
私が示す地に行きなさい」と。
神はアブラムに語りかけました。
そしてアブラムは、この語りかけに応答しました。
神はモーセにも語りかけました。
モーセよ、モーセよ」と呼びかけました。
そして私はエジプトで奴隷として苦しんでいるイスラエルの民を救うので、
あなたはわが民、イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ、と
モーセに語りました。
そしてモーセは、この神の語りかけに答えて、エジプトに行きます。


→語りかけに応答する、
このことによってコミュニケーションが成立します。
コミュニケーションは、
人と人とが関わりをもって生きていくとき必要です。
夫婦であれ、親子であれ、
コミュニケーション不足はよい結果をもたらしません。
よい関係を築くには、コミュニケーションは不可欠です。
聖書の神も人間に語りかけ、人間とのコミュニケーションを求めます。
そして人が応答して、コミュニケーションが成立します。
信仰生活とは、神とコミュニケーションをしながら生きること、
信仰とは、神との関わりに生きることを意味します。

→群衆が神の言葉を聞くためにイエス様のもとに押し寄せました。
エス様は二そうの舟が岸にあるのをご覧になりました。
エス様が見ると漁師たちが網を洗っていました。
そこでイエス様はペトロの舟に乗り、
「岸から少し漕ぎ出してください」とペトロに語りかけました。
するとペトロはイエス様の申し出に答えて舟を出しました。
エス様の語りかけにペトロは答えています。


→イエス様は舟に乗って岸から離れたところから
群衆を教え始められました。
ペトロはイエス様のすぐそばでイエス様の教えを聞くことになります。
エス様が教えられる時、人々はどんな反応を示すのでしょうか。
故郷のナザレでは、イエス様が人々に教えたとき、
人々はイエス様が語る「恵み深い言葉」に驚いています(4:22)。
エス様が会堂で教えられたとき、
人々はイエス様が語る言葉に権威があるので非常に驚きました(4:32)。
そういうイエス様の言葉をペトロはイエス様のそばで聞くことになります。
そして今ペトロは、イエス様から恵み深い言葉、
権威ある言葉を聞くのです。
ペトロは舟の中で、イエス様のそばで、イエス様の教えを聞きます。
エス様に対して、何らかの思いを抱いたに違いありません。

→群衆に語り終えるとイエス様は、ペトロに語りかけます。
「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」。
ペトロが舟を出してくれたので、
エス様は舟から群衆を教えることができました。
エス様は舟を出してくれたことに感謝の気持ちを表そうとされたのではないか、
と私は思います。
それで「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、
漁をしなさい」とお命じになりました。


→ペトロはイエス様の言葉を聞きました。
そしてそれに応答します。
何と応答したのでしょうか。
「先生、わたしたちは夜通し、苦労しましたが、なにもとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。


→聖書にははっきりとは書かれていませんが、
エス様は、ペトロたちが夜通し漁をしたのに、
何も取れなかったことをご存じだったのではないかと思います。
そこで沖に漕ぎ出して網を降ろしなさいとお命じになったのです。
網を降ろせば魚は捕れるとの暗黙の約束がここにはあります。
エス様の言葉は決して空しく終わることはありません。


→イエス様の語りかけにペトロは応答しました。
まず「先生、わたしたちは夜通し、苦労しましたが、
なにもとれませんでした」と語ります。
この言葉にはペトロのどんな気持ちが込められているのでしょうか。
皆さんは、どう思いますか。
ペトロには夜通し漁をしたのに、
収穫がなかったというくやしい気持ちがあると思います。
その悔しさを訴えているのでしょうか。
私はこのペトロの言葉には、
「網を降ろしなさい」とのイエス様の命令に対する反感・反発が
表れているのではないかと思います。
というのは、
ペトロたち漁師にとって、漁は夜中にするのが習慣だったからです。
昼間は漁はしません。昼間は漁に適さないのです。


→ペトロの思いとしては、
夜通し漁をして魚は獲れなかった。
今日は漁をするには適していないのだ。
それなのに、この明るい今、漁をしろというのか。
昼間は、漁に適さないのに。
ペトロの言葉には、
素直には従いたくないとの思いが表れているのではないかと思います。
エス様の命令は、漁師の常識からすれば、常識に反しているのです。
漁師の習慣からすれば、イエス様の命令は、セオリーに反するのです。
エス様、
あなたはそう言うけれどと反論したくなるイエス様の命令です。
そうは言うけれど、
との言葉が出てくるのをペトロは抑えたかも知れません。
私たちは、聖書に出てくる教えを読んで、
そうは言うけど、
と言って聖書の教えに従うことを拒むことがあるかもしれません。


→しかし、ペトロは「お言葉ですから、
網を降ろしてみましょう」とイエス様の命令に従いました。
エス様の語りかけにペトロは「従う」という応答をしました。
エス様の言葉を無視せず、自分の判断で拒むことをしませんでした。
“従う”、これが大事です。
エス様は、意味のないことを命令したのではありません。
網を降ろし、魚を捕りなさいとおっしゃったのです。
エス様の言葉に従った結果何が起きたのでしょうか。

→網を降ろすとおびただしい魚がかかったのです。
網が破れそうになるほど魚がかかったのです。
予想だにしない、思いがけない収穫でした。
そこでペトロは仲間に応援を頼みました。
ヤコブヨハネに、こっちへ来るように合図をしました。
そして捕れた魚を舟に引き揚げると舟が沈みそうなほどでした。
漁師の常識からすれば、あり得ない収穫が与えられました。
しかしイエス様にとっては、起きるべきことが起きたに過ぎません。
エス様の命令には従ってみるものです。
思いがけない結果が与えられるのです。


→ペトロは驚きました。収穫の多さに驚きました。
でも驚きで終わったわけではありません。
収穫の多さの中にペトロは、神の働きを見たのです。
収穫の多さは偶然でもなく、幸運でもなく、
神さまのもたらした結果であると知ったのです。
ペトロは、生きて働かれる神のみわざを見たのです。
そして同時にペトロは愕然としました。
自分の罪を思い知らされたのです。


→「網を降ろし、漁をしなさい」とのイエス様の命令に対して
自分がどんな思いを抱いたのかを思い出しました。
「網を降ろし、漁をしなさい」とのイエス様の語りかけを
何と愚かな、と心に思ったことが思い起こされたのです。
素直な心から従うことができず、あからさまに拒否できなくて、
「お言葉ですから」と、いやいや従ったことを思い起こされたのです。
おまけに魚が捕れるとは信じていませんでした。
エス様の言葉を信用していなかったのです。
エス様を信用していなかったのです。
しかし大量の魚を見て、神のみ業を見て、
「はっ」と自分の罪を思い知らされたのです。
人間には、自分の罪を思い知らされるときがあるものです。


→そこでペトロは、魚がいっぱいの舟の中で、
エス様の足もとにひれ伏し、
「主よ、
わたしから離れてください。私は罪深い者なのです」と言いました。
自分の罪を告白したのです。
「主よ、わたしから離れてください」。
罪を犯した者は神の前にとどまることはできません。
なぜなら、神の裁きを招くからです。
滅びを招くかもしれません。
そこで「わたしから離れてください」と言ったのです

→10節。イエス様はペトロに語りかけます。
「恐れることはない」。
これは、罪の裁きを恐れることはないとの慰めの言葉、
平安を与える言葉です。
エス様はペトロに赦しを告げました。
さらにイエス様は、ペトロに語りかけます。
「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
エス様はペトロに使命をお与えになりました。
人間をとる、つまり人々を神に立ち帰らせるのです。
そしてペトロと他の漁師たちは、イエス様の語りかけに応答します。
「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」。
ペトロは、人々をして神の言葉を聞く者へと導く働きに遣わされます。


→ペトロが舟の中で彼に語りかけたイエス様の言葉を神の言葉として聞いたかどうかは分かりません。
しかしイエス様のもとにひれ伏し、
私は罪深い者なのですと罪を告白したとき、
ペトロはイエス様の言葉を神の言葉と受けとめたと思います。
「網を降ろし、漁をしなさい」とのイエス様の言葉、神の言葉を、愚かな言葉とし、拒みはしませんでしたが、いやいや従ったことを罪としたのです。


→私たちは神の語りかけを聞くのでしょうか。
どこで、どのようにして聞くのでしょうか。
神の語りかけを聞いて生きる、これが信仰だと私は信じています。
礼拝における説教を通して、私たちは神さまの語りかけを聞きます。
あるいは家で聖書を読むとき、
私たちは一人で聖書を読んでいるのではありません。
聖書をはさんで私の向こうに神さまがおられて、
聖書を通して語りかけられます。
そして神の語りかけに応答していく、これが信仰に生きることです。


→神の言葉は、
時に従うことをためらわせることがあるかもしれません。
ペトロは「お言葉ですから」と言って従いました。
すると思いがけない収穫を得ました。
神の御業を見ました。
神の言葉に従うことをためらい、従うのをやめるとき、
私たちは罪を犯しています。
私たちは従わないことの言い訳を心の中でしがちです。
そしていつまでも心の中に自分の罪を隠し持つことになります。
神の言葉に従わない、それは神を貶めること、
神を侮辱することに他なりません。
神の言葉に従ってこそ、私たちは神さまをたたえることになります。


→ですから「お言葉ですから」と従ってみることは大切です。
人間の思いを超える結果を見ることができます。
そして不従順という自分の罪に愕然とし、
自分の罪の告白へと導かれます。
でもそれは幸いな時です。
神の赦しを受けるときだからです。
神の平安を与えられるときだからです。
神は人を赦し、生かす方です。
一人一人にふさわしい使命を与えて生かしてくださいます。
神さまの言葉に従う、これこそ神さまを崇めることです。
私たちに語りかけてくださる、そこに神さまの愛も示されています。