今日は大阪教区の隠退牧師の会があり出席しました。礼拝と食事、近況報告をし、お互いの安否を確認し合う会でした。開会礼拝で読まれた聖書の箇所がマタイ福音書11章25~30節でした。有名な「重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい」の聖句がある箇所です。今日のこの聖句との出会いに少々驚きました。
2,3日前から、老いを生きるのって重荷を負うことではないか、と思うようになりました。自分の死をどこかで意識して生きるのって、ある意味で重荷になるのではないかと思います。
朝、物憂い気持ちで目覚めるときがあります。いっそのこと死の眠りにつけば楽になるとの思いが湧いてきたりもします。毎日こんなことが起きるわけではありませんが、時に起きるのも事実です。
老いという重荷を主イエスに預け、主イエスの軛を負えばよいと、マタイ福音書の言葉から示されたように思いました。主イエスと軛を同じにして歩むわけですね。神さまの導きを与えられたように思いました。
うつし世をば はなれて
天がける日 きたらば
いよよちかく みもとにゆき
主のみかおを あおぎみん
(讃美歌320番より)