マタイ福音書を今、読み進めています。先日は主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いているときに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語られた場面を読みました(マタイ4:18~22)。
この段落を読むとき、主イエスが見知らぬ漁師たちに突然「ついてきなさい」と語り、漁師たちがそれに応じて「ついていく」というのは不自然に感じます。そこにいた漁師たちになぜ声をかけたのか、なぜ彼らなのか。また漁師たちもなぜ、その呼びかけに答えたのか、迷わなかったのか、戸惑わなかったのか。詳しい説明がないと物語としては不十分だと思います。しかし聖書はしばしば、説明を省略します。
主イエスの呼びかけは二つの事柄から成っています。私についてきなさいとの命令。そして人間をとる漁師にするとの約束。約束と命令は、神の呼びかけに含まれることがしばしばです。
マタイ福音書のこの段落は信仰を教える教訓的な内容です。主イエスは呼びかける方であり、信仰とは、その呼びかけに応じることであることを教える内容です。信仰に生きるとは、「わたしについて来なさい」との主イエスの呼びかけに応じて生きることであると教えられます。
今、あらためて「わたしについて来なさい」との主イエスの人格的呼びかけを聞きます。私はついて行くのか行かないのかと思い巡らします。答えはもちろんついていく、です。
老いの中にある自分が今主イエスについて行くとはどういうことなのか、と考えます。老いた者として、主イエスについて行くとは、御国を信じて生きるようにとの呼びかけと受けとめました。そして御国に迎えるとの約束を聞きます。
讃美歌22
めさめよ わがたま
この日もひねもす
みくにをのぞみて
いそしみはげめや
静かな夜、外では蛙が鳴いています。
近くの水路のそばで蛍が光っていました。