マタイ 7:21~23
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
昨日と今日、この聖書箇所を思いめぐらしました。この箇所は天の国に入るための救いの条件を語っているわけではありません。山上の説教でイエス様はキリスト者の生き方を教えています。
イエス・キリストを信じ救われてキリスト者になったのなら、天の父の御心を行って天の国に行こうよ、という話です。キリスト者は神の子とされ、「天の父よ」と祈りにおいて神さまに呼びかけます。だから神の子として父なる神さまの御心を行い、生きていこうよという話しです。
聖書によれば、イエス・キリストを信じる人は神の子とされます。だからキリスト者は祈る時、「天の父なる神さま」と呼びかけます。神の子とされているから天の父よと呼びかけます。
ですから、キリスト者とは神の子とされたことを喜ぶ人です。私たちには神の子となる資格はありませんが、イエス・キリストを信じるゆえに神の子とされました。
ヨハネ福音書 1:11~13
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言はイエス・キリストのことです。イエス・キリストを信じる人は神の子となる資格を得ます。つまり神の子とされます。「血」「肉の欲」「人の欲」によってではなくとは、人間の側の理由によって神の子とされたのではないことを示しています。自分のようなものが神の子とされるはずがないなどと考える必要はありません。もしあなたがそう考えるなら、そういうあなたのためにイエス・キリストは十字架上で亡くなり、あなたの救い主になったのです。そしてあなたは神の子とされたのです。
キリスト者の第一の課題は、神の子とされたことを喜ぶことです。神の子とされたことを喜ぶとき、第二の課題が見えてきます。天の父の御心を行うことを喜ぶことです。信仰者の課題は喜ぶことなんです。
これは言い換えると天の父なる神との交わりに生きるということです。キリスト者の生活は、神との交わりの生活です。このことがわかると天の父の御心を行うことを喜べるようになると思います。天の父なる神は、私たちが神の子として天の父との交わりに生きることを喜ばれます。
ヨハネの手紙一 1:3~4
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
老いを生きるようになり、老いとは死を待つことであるなどと考えて憂うつになりました。しかし気づきを与えられ、老いとは神のお召しを待ちながら神の子とされたことを感謝し喜び、天の父の御心を行うことを喜びながら生きることであるとあらためて気づかされました。信仰とは神さまとの交わりであり、天の国に迎えられたら、神さまを見、イエス様にお会いすることになると考えると神さまのお召しも楽しみに待つことができます。
今日は聖書を思いめぐらした後、「主我を愛す」を賛美しました。
御国の門を開きて我を
招きたまえり、勇みてのぼらん
わが主イエス、わが主イエス
わが主イエス、我を愛すわが君イエスよ、我を清めて
良き働きをなさしめたまえ
わが主イエス、わが主イエス
わが主イエス、我を愛す
良き働きとは、天の父の御心を行うことですね。