クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.5.29)
聖書 使徒言行録 1:1〜11 主の証人への招き


 私はある時、聖書の読み方を学びました。聖書を読む時、神様の約束、命令がどのように書かれているのか注目して読むのです。その他、聖書は、神はいかなる方だと語っているのか、にも注目します。


この読み方を学ぶ前は、漠然と読んでいました。聖書を読んで、自分の心に響く言葉に線を引いたり、自分の心に残る言葉をノートにメモしたりしていました。これはいい言葉だ、この言葉には励まされる、この言葉は慰めを与えてくれる、などと聖書を読んでいました。要は自分の心に引き寄せて聖書を読んでいたのです。自分の心に引き寄せて聖書読んでも、信仰生活に変化はないというか、聖書の言葉が、自分の人生を変えていく、切り拓いていく、ということはありませんでした。


 ところが聖書を読む時、神様の約束は何か、命令は何か、に注目していくと違うのです。自分の心が神様の思いに引き寄せられていくのです。すると神様の約束、命令が、わたしの人生を変えていく、切り拓いていくことを経験しました。聖書の言葉、つまり神様の言葉が、羅針盤のごとく、わたしの人生を導くことを知りました。神様は、

  • 約束の言葉によって私どもの歩みを祝福してくださり、
  • 命令の言葉によって私どもの歩みを導いてくださることを知りました。

 聖書が慕わしい書物となり聖書を読むことが喜びとなりました。皆さんは聖書をどのように読んでおられますか。今日の聖書は、私どもにどのような約束を与えているのか、どのような命令を与えているのか、耳を傾けてみましょう。


 今日は使徒言行録を読みました。いつものルカ福音書から離れます。6月12日がペンテコステの日なので、ペンテコステを迎える準備の意味を込めて、使徒言行録を読むことにしました。ペンテコステ、これはギリシャ語で数字の50を意味します。主イエスが復活されてから50日後に、神が約束された聖霊が主イエスの弟子たちの上に降ったのです。


 実は、聖霊は主イエスにも降りました。それは主が公の活動に入る直前のことでした。主が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のように目に見える姿で主イエスの上に降ってくるという出来事が起こりました。そして主イエスは、聖霊の力に満ちてガリラヤ地方で活動を始められました。



 今日読んだ聖書で、主は天にあげられようとしています。福音を宣べ伝える働きを主は、弟子たちにつまり使徒たちにゆだねることになります。「使徒」という言葉は、「遣わされる者」という意味です。使徒たちは、福音を宣べ伝える働きに送り出されるのです。新しい歩みを始めます。この時、主イエスは言うのです。「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」。主イエスの命令です。「前に私から聞いた」とは、ルカ福音書の最後に書かれています。そこでは、「私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と主は言われました。


 主の弟子たちは今や、福音を宣べ伝えるために、主イエスが救い主であることを宣べ伝えるために遣わされるのです。そのために使徒たちも聖霊を受け、その力に満たされるのです。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。

 聖霊の力を受けて使徒たちは、福音を宣べ伝える働きに送り出されるのです。さらに主イエスは言います。「そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。今日読んだ聖書の段落の中心は

  • 「父の約束されたものを待ちなさい」という主イエスの命令と
  • 「あなたがたはわたしの証人となる」という主イエスの約束です。

 使徒たちは、約束と命令を聞き、新しい歩みを始めようとしています。私どももまた、神様の約束と命令を聞くことによって新しい歩みをするようになるのです。聖書から神様の約束と命令を聞くことによって新しい信仰の歩みに踏み出す、そんな経験をしたことがありませんか。若くても年老いても、男でも女でも、富める者も貧しい者も、健康な者も病気の者も、神様の約束と命令を聞く時、新しい歩みへと押し出されるのです。


 創世記12章にアブラハムという人物が登場します。神はアブハラムに呼びかけます。

「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」。

 神はアブラハムに慣れ親しんだ土地に別れを告げ、親族と別れて旅立てと命じるのです。行き先を知らず、神が示す地に行けというのですから、これは孤独の旅、不安の旅となります。しかし

「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」

という約束があります。神の約束が実現するには、約束に伴う命令に従うことが必要であることを教えられます。こうしてアブラハムは、行く先を知らずして旅に出たのです。後に彼は信仰の父と呼ばれますが、神の約束を信じて行き先を知らずに出発します。これこそ信仰生活です。信仰に生きる者は己の将来を神に委ねるのです。


 アブラハムの時代から400年以上たった時、アブラハムの子孫であるイスラエル民族はエジプトにおいて奴隷として苦しみの生活を送っていました。イスラエルの民は苦しみからの救いを求めて神に叫び続けました。すると神は、モーセという人物に声をかけるのです。


「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3:7以下)。
 神は約束します。

「わたしは、エジプト人の手から彼らを救い出し、広々として素晴らしい土地、乳の蜜の流れる土地へ彼らを導き上る」。

そしてモーセに命じます。

「今行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす」。

 モーセもまた神から約束と命令を聞きました。イスラエルの民を救うという神の約束、そのためにモーセはエジプト王のもとに行くという命令を神から与えられます。ここから、奴隷であるイスラエルの民が自由な民となる歩みが始まります。神の声を聞く前、羊飼いであったモーセは、今やイスラエルの民を導く指導者になるのです。新しい人生に踏み出すのです。


 神が約束した広々として素晴らしい土地に入る直前、神はイスラエルの民に約束と命令を与えました。

「これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」。

 神の戒めを守りなさいとの命令。そして「幸いを得、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」という約束。この約束と命令を受けてイスラエルの民は、自由の地での新しい歩みを送ることになります。


 このように信仰に生きるとは、神の約束と命令を聞くことということができます。私どもも信仰に入る時、神の約束を聞きました。たとえば

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

 神は永遠の命を与えると約束してくださいました。あるいは

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネ一1:9)。

 これは罪の赦しの約束です。このほかにも、新約聖書には、私どもに与えられた様々な約束が書かれています。これらの約束を知る時、私どもは、信仰に生きることの幸いと喜びを知ることになります。


 神の約束を知らず、神の命令だけを聞く時、信仰生活は辛いものとなります。神の命令を守れない自分を情けなく、みじめに感じ、信仰を持たない方がよかったとさえ思える経験をなさった方もおられるのではないでしょうか。あるいは自分は神の命令を守っていると自分を誇り、守っていない他の人を見下す自分に嫌気を感じたりするのではないでしょうか。信仰生活のためには、神の約束を聞くことはとても大切です。では、私どもにとって神様の約束と命令とは何でしょうか。今日の聖書から私たちは、

  • 聖霊が降ると力を受けるという約束と、
  • そうすると主イエスの証人となるという約束を聞きます。

 これは恵みの約束です。聖霊が降るのを待ちなさいという命令は不必要です。なぜなら、主イエスを信じる者の心には、聖霊がすでに住んでおられるからです。この約束を聞いてどうするか、です。この約束に生きるかどうか。この約束に祝福があります。あなたは言うかもしれません。

  • 「そんな約束、私は関心がありません」。
  • 「私は自分の問題で心がいっぱいで、主イエスの証人となる心の余裕も時間もありません」。
  • 「主イエスの証人となるのは、信仰熱心な人がなればよいのであって、私には関係がありません」。
  • 「私はもう年をとっていて、何もできません」。

 そうじゃないんです。私どもは、イエス・キリストを信じると決断し洗礼を受けると神の子とされ、イエス・キリストに結びあわされます。主イエスは私どもと共におられるのです。私どもは神の子として生きるのです。聖霊が私どもの心に住んでくださり、神の子として生きることができるようにされました。


 だから、神の子として悩み、苦しみ、神の子として喜び楽しむのです。神の子として悲しみ泣くのです。神の子として老いを生きるのです。神の子として生きるのです。その時私どもは、主イエスの証人となることができます。なぜなら、主は私どもと一緒にいてくださり、私どものために働き、導いてくださるからです。


 エジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民は、奴隷という困窮から救われました。神はイスラエルの民に言います。

「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る」(エレミヤ7:23)。

 困窮から救われただけでよいと考える民は、神の声に聞き従うことをおろそかにしました。神の民となり、幸いを得る道から離れたのです。神によって救われたイスラエルの民は、神の民として生きるべく、神から選ばれ、奴隷の困窮からの救いという恵みを受けたのです。


 神は、私どもを困窮から救い出すだけではなく、私どもを選び、救いという恵みを与え、主イエスの証人として生きるように命じておられるのです。この神の命令に従うところに祝福があるのです。


 ところが私どもは、救われればそれで十分、後は自分のしたいように生きていくという態度をしばしば取るのです。それが私どもに幸いと祝福をもたらすとは限らないのです。神から離れる、ここから私どもの困窮が始まると言っても良いのです。


 私どもは、今こそ、主イエスの証人となることに立ち帰ることが大切ではないでしょうか。なぜなら、神様は、信じる者たちに人の思いを超えた祝福を与える方だからです。主イエスの証人となる、これこそ神の与えられる祝福に至る道なのです。


 主イエスの弟子たち、使徒とされた弟子たちは、主イエスを宣べ伝え、福音を宣べ伝える道を歩みます。彼らの中には殉教の死を遂げる者もいます。しかし彼らは主の証人となる道こそ、幸いであることを私どもに語っています。聖書、新約聖書がそのことを明確に語っているのではないでしょうか。祈ります。


祈り
約束をもって私どもを祝福し、命令をもって私どもを導かれる主イエスの父なる神、あなたを崇めます。イスラエルの民は、奴隷という困窮から救われました。この救いにより彼らは神の民とされました。神の民に彼らは選ばれたのです。私どももイエス・キリストを信じ、キリストの名をもって呼ばれる者となりました。感謝します。
聖霊を受けると力を受けるとの約束、そして主イエスの証人となるという約束を祝福として受け入れ、証人としての歩みを始めることができますように助け、導いてください。証人としての歩みに、あなたの祝福が満ちあふれていることを教えてください。その祝福を聖書から読み取ることができるように導いてください。神様の約束と命令、これが私どもの祝福であると教えてください。
天の父なる神、信仰を言い表していない方々をあなたの祝福へと導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。