クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 ルカ 8:16〜21
説教 聞く耳を持つ幸い

→キリストを信じる信仰とは、そもそもどういうものなのでしょうか
・この世に神を信じる人は多いです。
・ですから、もしかしたら私たちの信仰の仕方が、この世の神を信じる人と同じになってしまう可能性があるのではないでしょうか。


→人間は、弱いし、限界を持ちます。
・恐れや不安、思い煩いに悩みます。
・心の平安が欲しいです。
・ですから人は自分を越える大いなる存在に頼ります。
・その大いなる存在を神と呼ぶことにしましょう。
・人はその神が、自分を助けてくれると考えるのです。
・困っても、辛くても、きっと自分を助けてくれると信じるのです。
・神は自分に好意を持ってくれる、自分を顧みてくれる、
・自分を愛してくれるとさえ信じるのです。
・思いがけない出来事、好ましくない出来事が起きたりすると
・なぜですかと、神に問いかけるのです。
・大抵は神は、自分を顧みてくれるので、神を礼拝し、礼を尽くします。
・神の教えを守る努力をします。


→でも実行するのがむずかしい教えがあります。
・それで、これには従えなくてすいませんと祈るのです。
・神の教えに背くことが時々あっても
・神の赦しを信じるのです。
・できる範囲で神の教えに従う努力をするのです。
・人の目にも立派に生きているように見えます。
・そして生かされていることを神に感謝するのです。
・このような信仰者のあり方をクリスチャンはしていないでしょうか。
・これは自分が主人公である信仰で、神を利用しているように思えます。
・しかし聖書が伝える信仰はもっと別なものです。

→聖書が伝える信仰、それは神と共に生きる、という信仰です。
・神は私どもと一緒に歩んでくださる神だという信仰、
・それが聖書の告げる信仰です。
・これは旧約聖書を見るとよく分かります。
・私たちが旧約聖書を読む理由、
・それは信仰とは、神と共に生きることを知るためと言うことができます。


→神はこの歴史を一人びとりと歩んでくださる神です。
・神は、この歴史の中、人類と歩んでくださる神です。
旧約聖書は、イスラエルの民の歴史です。
・しかもそれは、神と共に歩んだイスラエルの民の歴史です。
・そこには、神に従う民の姿があります。
・そこには、神に逆らう民の姿もあります。
・そこには、イスラエルの民と共に歩む神の姿が描かれているのです。
旧約聖書、それは神と共に歩むイスラエルの物語が描かれています。
旧約聖書、それはイスラエルの民と共に歩んだ神の物語です。


→そして、その物語で注意を引くのは、神が語られるということです。
・神は語り、民と交渉を持たれるのです。
・神が語られ、民との交わりが生まれるのです。
・信仰とは、神の言葉を聞いて、神と共に生きることです。
・聖書が告げる信仰はこれです。
・もう一度言います。
・信仰とは、神の言葉を聞いて、神と共に生きることです。


→でも、私どもは神の言葉を本当に聞くことができるのでしょうか
・今日の聖書の21節に、「わたしの母、わたしの兄弟とは、
・神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と書かれています。
・「神の言葉を聞いて」とあります。
・私どもは、神の言葉を聞くことができるのでしょうか。
・聞くことができるとしたら、どのようにして聞くことができるのでしょうか。
・神はどのようにして語られるのでしょうか。
・それとも、私どもは、もはや神の言葉は聞くことができないのでしょうか。
・主イエスから教えを聞いた人は、確かに神の言葉を聞いたでしょう。
・主イエスは神の子であり、主イエスは神の言葉を語られたからです。
・私どもは、神の言葉は聞くことができませんが、聖書を読み、説教を聞いて、
・信仰の養いにすることができるということなのでしょうか。
・神の言葉を聞くことができるかどうか、あなたはどう思いますか。


→主イエスはともしびのたとえを語られました。
・灯をともす人は、部屋を明るくするために、灯をともします。
・灯を隠すことはしません。
・神は、今も私どもに語りかけられるのです。
・聖書がなぜ、私どもの手にあるのでしょうか。
・礼拝でなぜ、聖書の説き明かしである説教がなされるのでしょうか。
・聖書を通して、神は、私どもに語りかけられるのではないでしょうか。
・説教を通して、神は、私どもに語りかけられるのではないでしょうか。
・もし皆さんの中で、聖書は人間が書いた書物だ、
・説教は、牧師の話に過ぎないと考えておられる人がいたとしましょう。
・教会にいる人があなたのような人ばかりだとしたら、
・果たしてキリスト信仰は歴史の中を生き抜くことができたのでしょうか。


→隠れているもので、あらわにならないものはなく、
・秘められたもので人に知られず、公にならないものはない。
・これは一つのことわざです。
・悪事は隠し通すことができないという意味で用いられることもあります。
・ここではどういう意味なのでしょうか。
・神さまが私どもに語られる、それは見えません。
・隠されていることです。
・秘められたことということもできます。
・しかし、神の言葉を聞いて生きる人々がいるのです。
・神の言葉を聞き、また語る教会があるのです。
・信仰者の存在、教会の存在は、神が語られることを示しているのです。
・神は語られるのです。


→そこで、どう聞くべきかに注意しなさいとの警告がなされます。
・どう聞いたらよいのでしょうか
・種まきの譬えは、神の言葉を聞く心の状態を4つに分類していました。
・種が実るような聞き方、それが神の言葉を聞く聞き方です。
・具体的にはどのようにして聞くのでしょうか。
新約聖書には、神の言葉を聞いた人々のことが書かれています。
・テサロニケ教会の人々です。
新約聖書テサロニケの信徒への手紙一にそのことが書かれています。
・伝道者パウロがこう書いています。
・「このようなわけで、私たちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」(テサロニケ一2:13)。
パウロ、人間であるパウロがテサロニケで説教をしたのです。
・そのパウロの語る言葉を、テサロニケの人々は神の言葉として聞いたのです。


→テサロニケの手紙には、こうも書かれています。
・「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(1:6)。
・神の霊、つまり聖霊が働く時、人間の語った説教が神の言葉として聞かれるのです。
・神の霊、つまり聖霊が働く時、聖書を神の語りかけとして読むことができるのです。
・ですから、神の言葉を聞くことを願う者は、聖霊の働きを願い、聖霊が働かれることを信じるのです。
・そして、聖書の言葉を通して神の語りかけを聞き、
・説教者の言葉を通して、神の語られる言葉を聞くのです。
・すると喜びをもって神の言葉を聞くことができるというのです。
・神さまがあなたに語りかけられるのです。


→どう聞くべきかに注意しなさい。
・さらにもう一つ大切なことがあります。
・神は、あなたに語りかけられるのです。
・ですから、神の言葉を自分自身に結びつけて聞くことが大切です。
・神は、あなたのために、あなたに語りかけられるのです。
・もし自分に結びつけなかったら、聞きっぱなしになります。
・すぐに忘れてしまいます。
・コロサイの信徒への手紙には、こうあります。
・「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)。
・これは神の言葉を沢山暗記しなさいということではないでしょう。
・それは神の言葉を聞いたのなら、それが何を意味しているのか、自分にどう結びつくのか、思いめぐらすことによって、心に刻み込まれるようにするということです。


→主イエスはさらに警告の言葉を述べます。
・持っている人は更に与えられ、
・持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。
・一体何が与えられ、何が取り上げられるというのでしょうか。
・それは<神の言葉を聞く力>といってよいのではないかと思います。
・テサロニケ教会の人たちのように、
パウロ、つまり説教者の語った言葉を人の言葉としてではなく、
・神の言葉として受けとめることを続けていく人は、
・ますます神の言葉を聞くことができるようになるということです。
・しかし、神の言葉として受けとめず、
・人間の言葉として受けとめるとどうなるでしょうか。
・これは受け入れよう、これは受け入れなくてよい、と自分で判断します。
・人間の語る言葉ですから、自分に益となるものだけ受け取れば良いのです。
・するとどうなるのでしょうか。
・神の言葉を受けとめることがどんどんできなくなるのです。
・神の語りかけに聞くことができなくなってしまうのです。
・神の語りかけを聞けない信仰者になってしまうのです。


→最後にあと一つ、主イエスの言葉に聞きます。
・主イエスの母マリアと兄弟たちが、主イエスのいるところに来ました。
・彼らは群集にさえぎられて主イエスに近づけませんでした。
・家族が会いに来たことを主イエスに知らせる人がいました。
・その時、主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。


→主イエスは、神の言葉を聞いて行う人の兄弟となってくださるのです。
・私どもは、主イエスの弟、妹になるというのです。
・勿論これは、血のつながりによるのではなく、信仰によるつながりです。


→ここには信仰とは神との人格的な交わりであることが示されています。
・信仰者は、主イエスと兄弟になることだというのです。
・信仰とは、神の言葉を聞くことから始まるということ、
・これも信仰とは神との人格的交わりであることが意味されています。
・主イエスが私どもの兄弟であるということを私どもは考えてこなかったかも知れません。
・しかし、今日はしっかり受けとめたいと思います。


→主イエスを信じるあなたには、神が父となってくださいます。
・だから、天の父よ、といって祈ることができます。
・神が父となってくださることはどうでもいいというクリスチャンはいないでしょう。
・であれば、主イエスは、私どもの兄弟、兄となってくださるということを
・喜びをもって受けとめてよいのではないでしょうか。
・主イエスはあなたに、「弟よ」「妹よ」と親しく語りかけてくださるのです。
・何と心強いことではないでしょうか。
・「慈しみ深き友なる主イエスは」と私どもは賛美します。
・主イエスは、あなたに対して、友以上に親しい兄弟になってくださるのです。
・あなたが神の言葉を聞いて行うなら、あなたは幸いです。
・あなたが神の言葉を自分に結びつけて生きるなら、あなたは幸いです。
・主はあなたの兄弟となって親しく臨んでくださるからです。


祈り

私どもに語りかけ、私どもと共に歩んでくださる父なる神
あなたをたたえます。
あなたの語りかけを聞いて生きるものとしてください。
あなたの語りかけを聞いて、自分に結びつけて聞くことができるように導いてください。
あなたの語りかけを聞き、それに従うことができるようにしてください。
あなたが共にいて導いてくださる神であることを知ることができるようにしてください。
あなたが語りかけてくださることを喜ぶものとさせてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。