聖書 ルカ 7:1〜10 主が賞賛される信仰
暑い夏の一週間の歩みを支えられ、皆さんは疲れた体でこの教会に来られたのではないでしょうか。神さまを礼拝することを通して、平安を与えられ、疲れが癒やされ、励ましや力を与えられることを祈ります。今日もまた、聖書に耳を傾けたいと思います。聖書は神さまの言葉です。神さまの言葉には力があります。
→今日の聖書には、百人隊長と呼ばれる人が登場します。
文字通り、彼は兵隊100人を指揮する軍人です。この百人隊長には、病気の部下がいます。しかも彼が重んじている部下ですので、何とか助けたいと思うのですが、重病で死にかかっています。主イエスがカファルナウムの町に入られました。するとイエスがこの町に来ましたと、百人隊長に告げる人があったのでしょう。イエスがこの町に来たと聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老を使いにやって、自分の家に来てもらうようにイエスに頼みます。
→この箇所を何回か読むと、百人隊長の行動に疑問が生じます。
百人隊長は、自らイエスのもとに行って部下を助けてくださいと頼み、イエスに自分の家に来てもらって部下を助けてもらい、癒やしてもらったらお礼を言って主イエスを送り出せばいいのにと思います。なのに、そうしないのです。
→実際、多くの人々が病人を連れて主イエスのもとに行ったし、癒やしてもらって帰って行ったのです。
たとえば、4章40節以下にはこうあります。「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた」。癒やしてもらって人々は、喜んで自分の家に帰るのです。百人隊長の場合は、病人が死にかけていますから、イエスのもとに行くことはできませんから、イエスに来てくださいとお願いすればいいのではないかと思うのです。
→しかし百人隊長はそうしなかったのです。なぜそうしなかったのでしょうか。
もしそうしていたら、彼のことは聖書に記録されていなかったでしょう。彼はまことの信仰者でした。だから他の人々のようにはしなかったのです。
→他の人々だったら、自分でイエスのもとに行き、部下を救ってください。わたしの家に来てください、と頼んだでしょう。
病人が死にかかっているのです。百人隊長のように、わたしはあなたを自分の家に迎えることはできませんとか、わたしはあなたの前に出るのにふさわしいものではありませんなどとは言わないのです。そんなこと言っていたら部下を助けることができません。とにかくイエスに来てもらうのです。多くの人々は、病人をイエスのもとに連れて行き、癒やしてもらって、自分の家に帰ったのです。それでいいではないですか。
→でも、百人隊長にはそれができなかったのです。
誰もがするように病人を癒やしてもらう態度、それは「自動販売機信仰」と言ってよいのです。「自動販売機信仰」、これは私が昨日つくった言葉です。
→自動販売機というのは、機械です。
そこにお金を入れ、自分の欲しい物を示すボタンを押すとそれが出てきて、欲しい物を手に入れることができます。多くの人々はイエスのもとに来て、イエスにいやしてくださいとお願いし、病人が癒やされると家に帰ります。病人を連れて自動販売機の前に立ち、いやしというボタンを押すと病人が癒やされ、それで帰って行くと考えたらどうでしょうか。癒やしてくれるのは主イエスでなくてもいいのです。いやしてくださいとお願いしていやしてもらえるなら、誰が癒やしてくれてもいいのです。自分の願いがかなえられればいいのです。あの人は病気を癒やしてくれるぞ、行こう、行こう、と言うとき、それは癒やしを与える自動販売機のもとにでかけるのと同じです。
→キリスト教は、自動販売機信仰ではありません。
神に祈り求め、それがかなえられれば感謝し喜び、神とは、願いをかなえてくれる存在であるとする。これは神を自動販売機と同一視しているようなものです。神は願いごとをかなえてくれる自動販売機になってしまうのです。
→百人隊長彼の大切な部下が病気で死にかかっていました。
そこに、イエスがカファルナウムに来たことを知らせる人がいました。百人隊長はカファルナウムに住んでいたと思います。彼はイエスに助けと求めることにしました。部下は死にかかっていたのでイエスのもとに連れて行くことはできません。イエスに来てもらうしかないのです。
→そこで彼は、ユダヤ人の長老を使いに送ることにしました。
長老たちはイエスのもとに来て熱心に願いました。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」。おそらく百人隊長はユダヤ人が信じる神、聖書に証しされている神を畏れていたのです。そして会堂建築のために力を貸したのです。彼は謙遜な人でした。だから自分はイエスの前に出る資格もないし、イエスを自分の家に招くことのできるものではないと考えていました。なりふり構わず、イエスに来て欲しいと自ら出向いたりしませんでした。
→彼は、考えたのです。
彼は、自分のような者は、イエスの前に出ることができないし、イエスを自分の家に迎えることもできない。しかし部下を助けてもらわなければならない。そこで、ユダヤ人を遣わし、自分の家に来てもらうように頼み、イエスが家からほど遠からぬところに来た頃を見計らって友人を遣わし、「ご足労には及びません」と言い、「ひと言おっしゃってください」と言うことにしたのです。
→彼は百人隊長で軍隊に属しています。
軍隊では上官の命令は絶対的な権威を持っています。自分が命令すれば部下の兵隊は命令に従います。だから、主イエスが一言言えば、部下は癒やされると信じたのです。病気もイエスの言葉に従うと信じているのです。そうすればイエスにわざわざ自分の家に来てもらわなくてすみます。
→このような信仰をなぜ持てたのでしょうか。
イエスは以前、カファルナウムの会堂で悪霊に憑かれた人から、悪霊を追い出したことがあります。4章31節以下に書かれています。イエスが「この人から出て行け」と命じたら、悪霊が出て行ったのです。人々は、イエスの言葉に権威があり、力があることに驚きました。そして、イエスの噂は辺り一帯に広まったと書かれています。百人隊長は、イエスのことを既に知っていたに違いありません。
→イエスの言葉には権威があり、力があります。
イエスが悪霊に命じれば悪霊は出て行きます。百人隊長は、イエスの言葉には権威があり、力があることを信じたのです。彼は人々がイエスのことを語るのを聞いて信じたのです。実に信仰は聞くことから始まるのです。彼はイエスの言葉には権威があり力があることを聞いて信じたのです。
→イエスは彼の信仰をほめました。
イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがないとほめられました。信仰とは、神の言葉の権威と力を信じることです。彼はイエスの言葉に権威と力があることを信じただけではなく、この信仰に生きようとしました。「ひと言おっしゃってください」とイエスに語ることにより、彼の信仰は行動となって表れたのです。彼の信仰は目に見えるものとなったのです。心で信じているだけでは信仰は見えません。しかし「あなたがひと言おっしゃってくだされば、わたしの僕を癒やしてください」と言うことによって、彼の信仰は見えるようになりました。実に信仰は見えるものなのです。
→キリストを信じる信仰には二つの特徴があります。
一つは聖書に書いてあることが真理だと確信すること。今ひとつは、その真理に信頼し、その真理に基づいて行動することです。真理だと確信するのは心の中のことです。そしてその真理の基づいて生きる時、それは行動となります。つまり、信仰が見えるものとなるのです。
→私たちの手元には聖書があります。
聖書は神の言葉であると私たちは信じます。私たちは百人隊長を模範として生きることができます。私たちもまた「御言葉をください」と言うことができるのです。そして、神は既に聖書を通して、御言葉を与えてくださっているのです。
→聖書の言葉の中には、神の約束があります。
「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2:16)
イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を償うための死であることを信じる者は罪赦され、義とされるという神の約束です。この約束を真理と確信し、生きていこうとする人は、自分の罪を理由にくよくよすることなく、自分は神の目に正しい者であると顔を上げて生きていくことができます。
「私たちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)
死を越える希望を与えます。
→私たちはなぜ聖書を読むのでしょうか。
クリスチャンとしての義務で読むのでしょうか。読んでいないと恥ずかしいから読むのでしょうか。聖書に書いてあることを知ることは大切だから読むのでしょうか。そういう人もいるでしょう。しかし私たちは百人隊長のように「お言葉をください」と言って、自分が生きるのに必要な言葉を求めるから聖書を読むのではないでしょうか。だから、自分の必要な御言葉、自分を導く言葉を与えてくださいと祈り、聖書を読むのではないでしょうか。もし神さまの導きをいただきたいなら、聖書を読まなければならないでしょう。百人隊長は、部下の病気のいやしという助けが欲しくて、イエスに「ひと言おっしゃってください」と頼んだのです。
→私たちの生活は複雑で、問題がいくつもあり、絡み合い、どのようにしたら良いのか分からないことがよくあります。
自分で考えても良い解決が思い浮かびません。人に悩みを話せば、心の重荷が軽くなります。だからといって解決するわけではありません。そこで聖書から、神さまのお言葉をいただき、導きを受けることが大切となります。聖書がある、これは私たちにとって恵みです。私たちもまた、聖書は神の言葉であり、信頼に足ると信じます。現代は、権威というものを人々が認めない時代です。だから、人は何に頼って生きていったらいいのか分からないでいます。しかし私たちは聖書の言葉に権威を認め、これに信頼し、聖書の言葉の教えるところに従って生きるのです。私たちの行動はここで見えるものとなるのです。このような信仰をイエスは、賞賛されるのです。そのような信仰が、神が求められる信仰だと言うことです。
→私たちはつい、自動販売機信仰になります。
人生、自分の思い通りにしたいと考えます。自分の思い通りにしたいなどと大げさに考えていないかも知れないし、そのような意識はないかも知れません。でも生活の中で起こる様々な事柄に対して、ああなって欲しい、こうなって欲しいと神に祈っています。かなえられればほっとするし、よかったと思うし、かなえられないとなぜですかと神に疑問をぶつけたくなります。
→神は、聖書の言葉を通して私たちを導こうとされるかたです。
聖書を読めば、神の言葉が備えられていることに気づくのです。その導きを受けていけば良いのです。神の導きに従う道、それが平安の道であり、喜びの道です。私を愛し、わたしの人生を良きものにしてくださるという神への信頼がそこにはあるのです。
→座右の銘とすべき聖書の言葉があります。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5〜6)
「常に主を覚える」とは、聖書を通して語りかけてくださる神を覚えると言うことです。
→私どもが神の言葉から導きを受けるなら、自分の分別で生きることの危うさを知ることでしょう。
聖書から神の導きを受けることを知ったのなら、神の導きを受けないで生きていく生活に戻ることはできなくなるでしょう。多くの信仰者が、神を信じる前の状態に戻れないように、聖書が導きを与え、私どもを生かすことを知るなら、自分の分別によって生きようとは思わなくなるのです。むしろ、神の言葉に立って歩み、信仰が見えるものとなることを喜びとするようになります。神の言葉には力があるのです。この力に信頼して生きる、神の言葉への信頼を行動で示す、これがイエスが賞賛し、聖書が伝える信仰です。
祈り
天の父、信仰とはあなたとの交わりに生きることです。あなたとつきあって生きていくことです。あなたの心を思わず、あなたをただ願いごとをかなえてくれるだけの自動販売機のように考えることがないように導いてください。
日々の生活の中で、お互いの心を大切にすることが必要であるように、あなたの心を知ることを大切にし、また喜びとすることができるように導いてください。自分の気持ちを打ち明け、望みをかなえていただくように祈ると同時に、私どもを導こうとされるあなたの心に、耳を傾けることができますように。あなたは聖書を通して、必要な言葉を与えてくださいますから、これを求めることができるよう導いてください。み言葉を信じ、御言葉に立って歩み、私どもの信仰が見えるものとなることを願い、喜ぶことができますように。私どもが互いに信仰に生きることができるように励まし合うことができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。