クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

G教会で行った6月10日の礼拝説教です。聖書はルカ福音書8章4〜15節、種まきのたとえの箇所です。


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 私は説教の原稿を妻に読んでもらい、意見を聞きます。わかりにくいことはないか、説教はスムーズに流れているか、など。そして実際説教をすると、ふっと思いが与えられて付け加えることがあります。説教が終わった後、買い物に行くとき、妻と一緒に録音を車の中で聞きます。すると「原稿を読むのと聞くのとでは違うわねえ」と妻が言います。僕もそう思います。

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ルカ福音書 8章4〜15節
実を結ぶ者になれ
2018/6/10
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→聖書が告げる神さまは、私たちを招く神さまです。
私たちをイエス・キリストによる救いへと招く神さまです。
今日の聖書では、神の言葉を聞くように私たちを招かれます。
そして私たちを、神の言葉を聞いて実を結ぶように招かれます。
神の言葉を聞いて実を結ぶ、神さまの与えてくださる大いなる祝福です。
これが人生最高の幸せです。

→大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がイエス様のもとに来ました。
エス様の話を聞きに、イエス様の行う奇跡を見に集まってきました。
今日の聖書でイエス様は種まきのたとえを話されました。
そして最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。
なぜこの言葉を、そして大声で言われたのでしょうか。


→イエス様はたとえを用いて話された目的を弟子たちに告げます。
「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためである」と。
ちょっと冷たい表現のように感じるかもしれません。
エス様の話を聞く人が理解できないように、たとえで語るというのですから。
でも、冷たい表現ではありません。
エス様は、聞く耳を持ってイエス様の話を聞く人を求めているのです。


→たとえは誰もが理解できます。
同時にたとえには深い意味があります。
その意味をさらに知りたいと考え、さらに聞きたいと願うのか、
もういいです、と言うのか、
人々を二つに分ける働きがたとえにはあるのです。
聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス様は、
エス様の話をさらに聞くように人々を招かれました。


→イエス様が「聞く耳のある者は聞きなさい」という時、
聞く耳を持つ人とそうでない人がいるのです。
エス様は皆が聞く耳を持ってイエス様の話を聞き、
聞いたことを受け入れて信仰を持つことを願っておられます。
しかし皆が信仰を持つわけではありません。
エス様の言葉を、神の言葉として受け入れて生きるように
エス様は招いておられるのです。

→イエス様は種蒔く人のたとえを語りました。
四種類の土地に種は蒔かれ、結果は異なるものとなりました。
弟子たちの求めに応じて、イエス様はたとえの意味を説明されました。
種は神の言葉だというのです。
神の言葉が蒔かれるのです。
それは言い換えると、
神ご自身が、神の言葉という種が実を結ぶことを願っておられるということです。
聖書が証しする神さまはいかなる方かと言えば、
私たち神を信じる者が、神の言葉を聞いて実を結ぶことを願う神さまです。
私たちが信じる神さまは、私たちが神の言葉を聞いて、実を結ぶことを願う神さまです。
このことを私たちははっきりと確認したいと思います。
そうしないと、私たちは偶像を造ってしまうかもしれません。
聖書が証しするのとは違った神さまを心の中で造り出してしまうかもしれません。
私たちが信じる神さまは、私たちが神の言葉を聞いて、実を結ぶことを願う神さまです。


→神の言葉にはどんな働きがあるのでしょうか。
第一に、神の言葉を聞く人を救いに招きます。
第二に、救いに招かれた人を幸いな人生へと招きます。
言い換えると神の言葉を聞く人に実りをもたらします。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。
別な言い方をするなら、
神は御言葉をお与えになるほどに、私たちを愛しておられます。
神の言葉は、私たちを祝福する言葉です。
私たちを愛する神さまが私たちに語るなら、
それは私たちを祝福するためです。

→最初に蒔かれた種は、人に踏みつけられ、また空の鳥が食べてしまいました。
種を蒔く行為は、報われませんでした。
これは何を意味しているのでしょうか。
エス様は説明します。
み言葉を聞いても、信じて救われることのないように、悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちのことが意味されています。


→私たちの現実に即して言えば、礼拝での説教は聞きっぱなしということです。
礼拝が終わり、次の礼拝まで一週間の生活が始まります。
その生活の中で、説教つまり礼拝で聞いた神の言葉を思い出すことなく、
思いめぐらすことなく、神の言葉を聞いても、それが何の役にも立たないことを意味します。
あるいは信仰者の務めとして聖書を読むかも知れません。
聖書は読むだけ。いわば聖書を読んで信者としてのお勤めを果たしたと自己満足する、
これも同じです。
つまり読みっぱなし。聖書を読んだことが役に立ちません。


→聞きっぱなし、読みっぱなしになることについて、
ある人は忙しいからと言い訳をするかも知れません。
その結果として、神の言葉が与える祝福を受け取り損ねるのです。
神さまは、神の言葉を聞くように、そして実を結ぶように私たちを招いておられます。
それなのに、その招きを無駄にしてしまうのです。


→次の種は石地に蒔かれます。
種が蒔かれると芽を出しますが、水気がないので枯れてしまいます。
これについてもイエス様は説明をなさいます。
み言葉を聞くと喜んで受け入れるが、
根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことだというのです。


→神の言葉を聞いて受け入れるとあります。
神の言葉を受け入れ、その言葉を信じたのです。
しかし試練に遭うと身を引いてしまいます
つまり神の言葉から離れてしまうのです。
苦しい目に遭うとき、神の言葉が支えになるとは思えないのです。


→それは神の言葉が根を張っていないからです。
神の言葉を受け入れたら、それが根を張るようにすることが大切です。
根を張るとは、神の言葉に根ざす生活をすることを意味します。
神の言葉を土台として生きることを意味します。
根を張るとき、神の言葉が身につき、力となります。
あなたが物事を判断するときの基準は何でしょうか。
多くの人は自分の考えが基準です。
信仰者といえども、自分の考えを基準にする人が多くいます。
その時、神の言葉はどういう位置づけを与えられているのでしょうか。
神の言葉は参考データとなります。
自分が物事を判断するときの一つの参考データであり、
あくまでも判断基準は自分の考えとなります。
このような人は、神の言葉に根ざして生きていません。
神の言葉を根拠にして生活していません。
試練が起きると狼狽し、信仰は役に立たないと考えてしまいます。
信仰しているのに、なぜ辛い目に遭うのだと怒るかもしれません。
神の言葉が参考データとして役に立つ限りは、信仰に立つかも知れません。
でも試練など厳しい状況に追い込まれ、神の言葉は役に立たないと考えれば、
そこで信仰から身を引いてしまいます。
この場合も
神さまは、神の言葉を聞くように、そして実を結ぶように私たちを招いておられるのに、
その招きが無駄になってしまいます。

→次の種は茨の中に落ちた種です。
種は芽を出し成長しますが、茨も一緒に成長し、
茨が覆い被さり、結局、種は実を結ぶことがないのです。
これは、み言葉を聞くが、思い煩いや富や快楽のために、
実が熟するまでに至らない人たちのことだとイエス様は説明されました。


→思い煩いは、物事を自分の思い通りにしたいと考えることから生じます。
思い通りにしたくても現実には思い通りになりません。
そこでどうしたらいいか、堂々めぐりする思いが心を支配します。
富みにしても快楽にしても、結局、人間の欲です。
自分の欲に負けるのです。
欲を優先する生き方がここにあります。
神の言葉の位置づけが曖昧なために起きる現象です。


→神の言葉が、私たちに祝福をもたらすとの確信がないのです。
幸福とは、何か、人はそれぞれに考えます。
聖書は何が幸せか、答えを与えていると私は信じています。
でも聖書が与える幸せを自分の幸せとするためには信仰が必要です。
神さまが語る言葉を真理とする信仰が働けば、
聖書が告げる幸せを自分の幸せとすることができますが、
そうでなければ結局、自分の欲、自分の思いを果たすことに幸せを見いだすようになります。
聖書が告げる幸せ、それは神の言葉が結ぶ実です。

→神は実を結ぶように招いておられます。
最後の種は良い土地に落ち、百倍の実を結んだとあります。
実を結ぶ人は、神の言葉を立派な善い心で聞くとあります。
立派な善い心とは、どのような心なのか、あいまいです。
種まきのたとえは、マルコ、マタイ福音書にもあります。
こちらではどう語っているかを参考にします。
マルコ福音書では神の言葉を「聞いて受け入れ」とあります。
「受け入れる」とは、納得し、自分のものにするとの意味です。
拒否しない、拒まないのです。
聞いたことに従う用意のあることを意味しています。


→マタイ福音書では「悟る」とあります。
神の言葉の意味をよく理解し、それを受け入れるのである。
悟るとは、ただ理解するだけではなく、聞いたことが本当に神の言葉であると知り、
それに従うことです。
それが自分の祝福になることを知り、それに従うことです。
要は、神の言葉を従順な心で聞くということです。
ただ聞くだけではなく、聞き従う心をもって聞くことです。
神の言葉は、それに服し、従う心で聞くものではないでしょうか。
聞き従ってこそ、神を敬い、崇めることになります。
神の言葉を聞いて従う、それが立派な心、善い心となります。


→でも私たちは、なぜ神に従うのでしょうか?
神さまに従うのは当然と皆考えます。
しかしそれが建前になってしまうことがあるのではないでしょうか。
つまり言い訳をして従わないことがあるのではないでしょうか。
そこで建前を打ち砕くことが必要となります。
種は神の言葉。神の御心を意味します。
しかし、言い訳は自己主張です。
言い訳をするとは、神さまはそう言うが、私はこう考えると主張することです。
聖書が教える罪は、あれやこれやの悪事をすることではなく、
神さまに逆らうことです。
人間は神の前でも自己主張をしがちです。
人間にはプライドがあるからです。
たとい神の言葉でも、なぜ従わなければならないのか、という思いは
信仰者の心にあるのです。
根深い罪です。
誇る者は、主を誇れと聖書にありますが、自分を誇りたいのが、肉なる人間のさがです。
聖霊によって、自分の罪を知らされるとき、回心が起こり、
人は悔い改めに導かれ、神さまに従うようになります。
そして神の言葉に従い実を結ぶようになります。

→忍耐して実を待つのは、自然の中に実例を見いだします。
蒔かれた種は成長し、花を咲かせ、やがて実を結びます。
時間がかかります。実を得るには、待つという忍耐が必要です。
種を蒔いた瞬間に実がなるわけではありません。


→それでは実とは何でしょうか。
たとえば牧師にとって実とは何でしょうか。
毎週毎週の説教の働き。
その結果として洗礼を受けた人が生まれれば実を結ぶということなのでしょうか。
もしそうだとしたら、たいした実を結ばせることなく、
牧師の働きを終える人も少なくないと思います。
地方の教会へ行くほど、新来会者は少なく、
受洗者が生まれることは少なくなります。
教会の主なる働きが伝道なら、一年に何人の受洗者を出しているのでしょうか。
豊かに実を結んでいるとは言えないと思います。
そのような目に見える結果が実なのでしょうか


→実とは、御言葉によって歩む幸いのことだと私は考えます。
神の言葉を自分の判断基準とし、拠り所とし、
神の言葉によって歩む幸い。
人間の知恵によらず神の言葉を受け入れ、悟り、これに従う歩み。
この歩みそのものが幸いであり、この幸いが実であると私は考えます。
必ずしも目に見える実があるわけではありませんが
心には喜び、平安、感謝があります。

→最後に私がこの幸いをどのようにして受け取っているかを紹介します。
説教を聞くなり聖書を読むなりしたときに、
つまり神の言葉を聞いたとき、私は二つのことを考えます。
一つは神はいかなる方かということです。
私たちは神がいかなる方かを知りません。
神の言葉は、神がいかなる方かを教えてくれます。
神がいかなる方かを知れば、それに応じて、神といかに関わればよいかが分かります。
神が憐れみ深い方と聞いたなら、神の憐れみにすがります。
神が罪に対して怒る方であると聞いたら、自分の罪を悔い改めます。
つまり神の言葉に具体的に応答するのです。


→今ひとつは、神が私たちに求める生き方です。
神の約束は信じて期待します。
神の命令には従います。
してはならないという警告にも従います。
罪が指摘されたら悔い改めます。
聖書に登場する人物を模範にすることもあります。
神の言葉を聞いたら、その言葉を通して神さまは、
私の生活をどのように導こうとされるのかを思いめぐらします。
そしてその導きに従います。
私にとっては、このように神の言葉に応答すること、
それが一つの実です。
少なくとも神の言葉を蒔いた神さまには、実に見える、そう信じています。
このように神の言葉に応答することを繰り返し、習慣化していくとき、
御言葉と共に歩む幸いがいつも私と共にあります。
このような幸いへと神さまは私たちを招いておられます。