クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.5.22)
聖書 ルカ 5:33〜39 主イエスが伝える神


あなたは自分の身に不幸なことが起きると、

  • なぜこのような目に遭うのだろうか、と考えませんか。 
  • このような不幸を招くような悪いことを自分はしているだろうか、と自分の歩みを振り返りませんか。


 悪いことをしたことが思い出されると、それが原因だと不幸を納得して受け入れることができますが、悪いことをした覚えがないと、不幸を受け入れることは簡単ではありません。時に「神も仏もあるものか」と言いませんか。つまり神とか仏とか人間を超えた存在は、正しい人には祝福をもって報い、正しくない人には、懲らしめをもって報いるという考えがあるわけです。しかし悪人が栄え、善人が苦しむということが現実にはあります。そういう現実があるとしても、神仏は、正しい人に良い報いを与えると考えるのは人間にとって自然であると言ってよいのではないでしょうか。そして実際、多くの人は善人として生きていこうとしています。今日これから聖書を読んでいきますが、私どもが驚くようなことを主イエスは述べています。

今日の聖書で人々は疑問を出しています。

ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」。

 つまり、あなたが弟子たちに断食をさせないのはなぜですか、と聞いているのです。前の段落でファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスの弟子たちに言います。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」。ここで人々は、主イエスの行動を非難しているのです。徴税人は、税金を集めながら私腹を肥やす不道徳な人で、自分たちを支配するローマ帝国のために働き、異邦人と接触し、汚れている人だと見なされています。あるいは、売春をする女性や神の戒めを知ろうともせず、守ろうともしない人々は罪人と言われ、ファリサイ派の人々、律法学者たちからは、嫌われていました。


 主イエスがなぜ、このような人々と交際するのか、ファリサイ派の人々は理解できないのです。自分たちが決して交際しない人々と主イエスは交際するのです。なぜ、交際するのか。主イエスは言いました。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

この主イエスの主張が意味することはこうです。

  • 神は正しい人を招く神ではない。
  • 神は罪人を招く神である。

もう一度繰り返します。

  • 神は正しい人を招く神ではない。
  • 神は罪人を招く神である。

 そして罪人が悔い改めるのを願う神だと主イエスは言うのです。あなたの神理解と一致しますか。ファリサイ派の人々の神理解とは一致しません。ファリサイ派の人々の神理解はこうです。神は正しい者を招く神、正しい者を喜ばれる神です。だからファリサイ派の人々は一生懸命、神の戒めを守ろうと努力しているのです。主イエスの神理解とファリサイ派の人々の神理解には対立があるのです。


 今日の聖書でも、ファリサイ派の人々やヨハネの弟子たちは断食をしているのに、主イエスの弟子はしていない、と咎める口調で人々は述べています。敬虔な信仰者は断食をするのに、あなたの弟子たちは断食をしないし、あなたは弟子たちにさせようとしていない。神の戒めを軽んじているといって非難しています。律法(神の戒め)によれば、断食は年一回大贖罪日と呼ばれる日に行います。イスラエルの民全体の罪を覚え、神に赦しを求める日に行いました。罪の悔い改めとして行ったのです。


 主イエスの時代、ファリサイ派の人々は、週に2回断食をしました。モーセが神様から掟をもらうためにシナイ山に登った木曜日、シナイ山から降りてきた月曜日の2回、断食をしました。彼らの断食は悔い改めというよりは、神の掟を神からいただいたことを覚えての断食と言えます。


 これに対して、主イエスは答えます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。花婿とは主イエスのことです。婚礼の場は祝宴の時であり断食をする場ではありません。メシアがおいでになったのに断食をする必要はないという意味です。


 そして主イエスは、さらに二つのたとえを話されます。二つのたとえは同じ意味です。古いものは新しいものを受け入れることができないとの意味です。古い服に破れが生じて継ぎをあてる場合、新しい服を破って布切れをとり、古い服に継ぎを当てるだろうか。それは愚かなことです。そんなことはしません。新しい服が破れてだめになるし、古い服に合いません。古いものは新しいものを受け入れることはできないとの意味です。新しい服を着ればいいんです。


 また新しいぶどう酒は古い革袋に入れたりしません。革袋というのはミルクやぶどう酒を入れる袋ですが、山羊や羊の皮でつくったものです。家畜の首と4本の足を切断し、皮をはぎ、裏返して縫い合わせるのです。首の部分を容器の口にします。これが革袋です。


 ぶどう酒は、ぶどうから、つまりブドウ液を発酵させてつくります。ブドウ液が発酵すると、アルコール(ぶどう酒)になり、同時に炭酸ガスを発生します。ぶどう酒を革袋に入れると発酵がまだ続き、袋がガスでふくれます。古い革袋の場合、縫い目が破れる可能性があります。そこで、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れることになります。これもまた、古いものは新しいものを受け入れることはできないとの意味です。



 主イエスは、新しい神理解をもたらそうとしているのです。ファリサイ派の人々は「神は正しい者を招く神、正しい者を喜ばれる神」と理解し、神の戒めを守らない人々を罪人と軽蔑します。しかし主イエスの伝える神は、罪人を招く神であり、罪人が悔い改めるのを願う神です。主イエスは恵みに満ちた神を伝えようとしているのです。新しい神理解と古い神理解、相容れることができません。


 神は正しい者を招く神ではないと主イエスは語られます。自分が神の前に正しいかどうかなんて、どうでもいいんです。神は正しい者を招く神ではないからです。私どもは正しい人になって神に受け入れられよう、神に喜ばれようなどと考え努力する必要はありません。神様は「わたしの戒めを守らないとあなたを受け入れない」とは言わないのです。私は神の戒めを守っていると誇ることもできないし、私は神の戒めを守れていないと卑下する必要もありません。


 神は正しい人を招く神ではないのです。主イエスは、「私は正しい人を招くために来たのではない」とはっきり述べておられます。ですから私は神の教えを守っている、と胸を張り、そういう自分を誇りに思っているあなた、がっかりしてください。あなたみたいな正しい人を招くために来たのではないと主イエスはおっしゃっています。私は神の教えを実行できていないと自分を卑下するあなた、顔を上げてください。自分は神に招かれていないと考えなくていいんです。


 神は罪人を招く神です。主イエスは罪人にわたしのもとに来なさいと招かれるのです。いや、主イエスの方から罪人に近づかれるのです。ルカ福音書15章に放蕩息子のたとえがあります。本当は、失われた者のたとえと呼んだほうがいいたとえです。


 ある農夫に二人の息子がいました。弟息子は、自分が相続する財産を、今くださいと父に願います。父が財産を分けると、彼はそれを全部金に換えて遠い国に向かって家を出ます。やがて彼はお金を全部使い果たし、生活に事欠くようになります。食べるものに困ります。行き詰まるのです。その時彼は、我に返ります。父のもとでは、雇い人でさえ有り余るほど食べていた。「『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と言おう」と覚悟を決めて家に帰ります。


 彼の姿がまだ遠くにある時、父は息子の姿を認め、息子のもとへ走り、息子を抱きしめます。父の方から息子に近づくのです。父の方から、どうしようもない息子に近づくのです。これが神です。そして息子に最上の服を着せ、祝宴を開くのです。彼は父のもとに帰ってきました。父は帰ってきた息子を喜ぶのです。財産を使い果たしたことについては何も言いません。息子が帰ってきたことを喜ぶのです。神は自分のもとに戻ってくる罪人をありのまま受け入れるのです。無条件に受け入れるのです。


 この息子はどうしようもない息子かもしれません。親の財産を食べたり飲んだり、女遊びで使い果たしてしまうのです。そんな息子が帰ってくるのを父は喜びました。父のもとを飛び出した息子、その息子が戻ってくるのを父は喜ぶのです。

父のもとに帰る、神のもとに帰る、これを<悔い改め>

と言います。悔い改めとは悪いことをしたことを認め、それを反省するということではありません。神から離れ、神に背を向けていた人が、神のもとに帰ること、それを悔い改めと言います。この息子は、父が自分のことを受け入れ、喜び、最上の服を着せて息子として取り扱ってくれたことに驚きを覚えたでしょう。そして喜んだことでしょう。以前は父のもとを離れたいと思って家を出たのに、今や、父のもとにいることが喜びとなったに違いありません。父の愛がうれしいのです。さらに自分を受け入れてくれた父の心を大切にしたいと考え、父に対して素直に従う息子になったに違いありません。彼は喜んで父の命令に従う息子になったでしょう。


 私どもは、自分がありのまま神に受け入れられていること、つまり神に愛されていることを喜ぶのです。神のもとに帰るとは神の心を大切にすることです。神のもとに帰る人は神の戒めを喜んで守る人になるのです。神の恵みが私どもを変えるのです。神は罪人を招いて罪人が悔い改めるのを願う神なのです。


 いなくなった息子が戻ってきて宴会が開かれました。兄息子が畑から帰ってくるとにぎやかです。彼は宴会に加わりません。あのどうしようもない弟のために祝宴を開くのに、まじめに働く自分のためには父は開いてくれないことに納得できないのです。父が赦せないのです。


 父はこの兄のためには宴会を開きません。開く必要がありません。兄はすでに父のもとにいるのですから。兄息子が自分と共にいる、それは父の喜びになっているのです。父は兄に言うのです。「おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。喜ぶのは当たり前ではないか」。


 この父は、弟息子が帰ってきたことを兄にも喜んで欲しいのです。なぜ喜ばず、弟を軽蔑し、父と一緒にいることを喜びとできないのでしょうか。それは自分の正しさにしか関心がないからです。自分の正しさを父が認めることにしか関心がないからです。どうしようもない弟はいなくてもいいのです。


 弟のことを軽蔑し、自分はまじめに働いていると自分の正しさを主張する兄は、父にとってはいないも同然です。父と一緒にいることを喜んでいないからです。こんな風に自分の正しさを主張する人は、実は神を受け入れていないのです。罪人を愛する神を拒否しているのです。正しい者を受け入れ喜ぶ神を妄想しているに過ぎないのです。


 主イエスは、そして神様は、罪人を招く方です。罪人が神のもとに帰ることを喜ばれるのです。神のもとに帰り、神の心を大切にし、神に従うようになることを喜ばれるのです。そのために、主イエスは、罪人たちのもとへ行くのです。


 自分を正しい人間と考える兄は弟を軽蔑します。この兄は、あのファリサイ派の人々です。彼らは神と共にあることを喜ばないし、罪人が神のもとに帰って来ることにも無関心ですし喜びもしません。ただ自分の正しさを吠(ほ)えるだけです。自分を正しいとする人は神のもとに帰りません。神の心を大事にしません。自分の正しさだけを主張し、神は自分の正しさを認めてくれるだけの存在になってしまいます。


 主イエスが伝える神、それは正しい人を招く神ではありません。あなたがどのような人であろうと、あなたが神のもとに立ち帰ることを喜ばれる神です。あなたが神の心を大切にすることを喜ばれる神です。罪人を招き悔い改めさせる神です。この神を伝えるべく主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちが罪人とさげすむ人々のもとへ向かうのです。


祈り
憐れみと恵み豊かな主イエスの父なる神様、あなたがいかなる方かを教えられ感謝します。あなたは正しい者を招く神ではありません。実際、あなたの前に本当に正しい人は一人もおりません。ただ自分は正しいと主張する人間がいるだけです。
私どもは、神に受け入れられるように、神に喜ばれるように、正しい者になろう、立派な信仰者になろうという努力をしますが、あなたはそんなことを求めておられないことを教えられ、驚きます。しかしうれしく思います。あなたが私どもに求めることは、あなたのもとに帰り、あなたの心を大切にし、あなたの心を喜ぶことです。
あなたは、ありのままの私どもを受け入れ、ありのままの私どもを喜んでくださいます。私どもを愛してくださいます。私どももあなたの心を喜び、あなたを愛することができますように。あなたのもとに立ち帰ることができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。