クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.7.24)
聖書 ルカ 6章27〜36節 敵を愛しなさい


今日の聖書の「敵を愛しなさい」という主イエスの教えは、よく知られた教えです。聖書の教え、キリストの教えの素晴らしさを伝えるものです。今日の聖書は信仰者の生き方を明確に指し示しています。そして人間関係で悩み苦しんでいる人には、導きの光となる教えがここに示されています。

 主イエスは誰にこの教えを話されたのでしょうか。20節を見れば、弟子たちに向けて教えられたことは明らかです。弟子たちのほかに、おびただしい人々がいたことも、またたしかです。主イエスの教えを聞くために、主イエスに病気を治してもらうためにたくさんの人が集まり、主イエスは彼らを癒やされました。そして教えを述べられたのです。これを聞いた人々は、戸惑い、驚き、反発を覚えたかも知れません。

 主イエスは何を教えられたのでしょうか。27〜28節は愛敵、つまり敵を愛しなさいという教えです。敵とは、あなたがたを憎む人、あなたがたの悪口を言う人、あなたがたを侮辱する人たちのことです。その彼らを愛しなさいというのです。愛するとは、好きになるということではありません。敵に対して親切にし、祝福を祈り、敵のために祈ることが愛することだと主イエスは教えています。使徒パウロもまた「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ12:14)と教えています。

 敵とは誰のことを言うのでしょうか。22節の「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」という言葉から考えると、主イエスを宣べ伝えるのを妨げる人が敵となります。しかし、私どもの日常生活においても、私どもに悪を企み、悪意を向ける人がいますから、伝道を妨げる人と狭く考えないで、もっと広く考えてよいと思います。私どもが敵と思える人全部を考えてよいと思います。


 その敵には、私どもの伴侶、子供、親、職場の同僚、上司など、身近な人が含まれると言ってもよいと思います。そして実際に、その人々のために私どもが苦しみ悩まされるということがしばしばあるわけです。嫁姑の問題、親子の断絶、親と子が殺し合うなどの悲しい事件、離婚を考えて憎しみ合う夫婦、これらのことは、敵が身近にいることを教えています。私どもは、身近な人ほど自分の思い通りにならずに悩み、心密かにその人たちを敵と思ったりするのではないでしょうか。


 主イエスはそのように敵と思える人々を愛し、親切にし、祝福を祈りなさいと教えるのです。あなたはどう思われるでしょうか。敵と思える相手に対し反撃に出て相手を支配下におこうとするのでしょうか。それとも相手に支配され、忍耐しつつ心の中では赦せないと思うのでしょうか。
主イエスはなぜ、この愛敵を教えられたのでしょうか。この教えは、憎しみあう関係、対立する関係、争う関係の中に生きるのではなく、むしろ、平和な関係を築いて生きていくことを目指す教えです。むずかしい教えだと切り捨てないで、平和を生み出す教えであることを心に刻みたいと思います。

「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:5)

と主イエスは教えておられます。


 29〜30節は、悪人に手向かうな、と教えています。頬を打つ者、上着を奪う者、共に暴力を振るう者です。これらの人々には、争うなと教えています。仮に争えばこちらが傷つくのだと思います。無抵抗を教えていると言うことができます。ただし、現代では家庭内暴力が問題となっています。夫婦間暴力、児童虐待などの問題は、解決を必要とする問題です。問題の解決に向かうことが愛であり、暴力を見逃すことは解決ではありません。このような暴力があるままで、よい関係、平和な関係を築くことはできません。
さらに

「求める者には、誰にでも与えなさい」「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」とあります。この二つは、自分が拒むことができます。この場合、与えなさいというのです。「あなたの持ち物」とありますが、これは「あなたのもの」と訳した方がよいと思います。持ち物だけでなく、相手に時間や労力を与えるという意味にもなります。人の相談にのることは時間を与えることであり、奉仕をすることは労力を与えることです。パウロは主イエスのこの教えを「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ12:17)

と教えています。あるいは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)と教えています。


31節は黄金律と呼ばれる教えです。英語ではゴールデンルールと呼び、最も優れた教えと受けとめられている教えです。「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」。これは相手から見返りを求めずに、一方的に相手のために振る舞うことを教えています。自分がして欲しいと思うことを人はなかなかしてくれません。だからこそ自分は、人にしてあげるというのです。


人類がみなこれを実行すれば、人間社会は格段に良くなることは誰の目にも明らかでしょう。この世においては、人は、自分にして欲しいことを人にさせようと願い、そうさせようとして生きているのではないでしょうか。特に身近な人間関係においては、相手に対する要求が多く、それが満たされないために、また相手の要求の多さに疲れあるいは抵抗し、争いが生まれ、人間関係が悩みとなっていきます。相手に要求するのではなく、互いに相手がして欲しいと思うことを行えば、うるわしい人間関係が築かれていきます。


32節以下では、罪人は、このような黄金律には従っていないと教えられます。ここの罪人は、一般の人々、つまり主イエスの弟子でない人を指します。一般の人々は見返りを求めて行動するのであり、見返りがない場合には行動しないというものです。つまり自分中心なのです。これを聖書は罪と言います。だから黄金律に従わない人を罪人と呼んでいます。主の教えを実行しようとは思わない人を主は罪人と呼んでいるのです。


以上の教えにより、主イエスは何を目指しているのでしょうか。他者との対立、争いを避け、平和を築くこと、互いに愛し合うことを主は教えているのではないでしょうか。そして罪人とは、他者のことよりも自分の損得しか考えない人のことであると教えているのではないでしょうか。主は弟子たちに対して、愛に生きることを教えているのです。

主イエスは、なぜこれらの教えを行うように弟子たちに命じるのでしょうか。これらの主の教えが素晴らしいことは誰もが認めます。これらの教えが間違っているとは誰も言わないでしょう。しかし、私どもは、これらの教えを実行したいとは思わないのではないでしょうか。そこまでしなくてもいいのではないか、理想的な教えでむずかしいと思うのではないでしょうか。そして、そこまではしたくないという本音が私どもの心に潜んでいるのではないでしょうか。しかし主イエスは、私の弟子なら、当然従うでしょ、という思いで教えておられるのではないでしょうか。
使徒パウロはこう述べます。

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)

。罪人とは、神に背を向ける者のことです。つまり神の敵です。神は敵である人間、罪人を救おうとされたのです。そのためにキリストが十字架で罪人として処刑されることを計画され、そのことを通して人間に対する愛を示されたのです。


神ご自身、神に背き、神の敵である人間を愛し、親切にし、祝福しようとされているのです。また「求めるものには誰にでも与えなさい」と30節にありますが、神は私どもが祈る時、答えてくださいます。神には答える義務はありません。神が答えてくださるのは神の善意、親切ということができます。神ご自身が、主イエスが教えたように、私どもにしてくださっているのです。


さらに主イエスは「神の国はあなたがたのものである」と教えられました。つまり、あなたがたは神さまのご支配の中に生きる者とされているということです。言い換えるなら、神さまは私どものことをいつも心にかけていてくださるということです。神さまは私どものことを片時も忘れることはないということです。私どものために善を行ってくださるということです。私どもは神の恵みの中を生きることができるというのです。


親は子供のことをいつも気にかけています。体の調子が良いか悪いか、親は気にかけます。子供の成長、教育のことなど大人になるまで、いや大人になっても、親は子供のことをいつも気にかけています。そして子供のためにできることをします。


神さまも私どものことをいつも気にかけてくださっているのです。神さまがこのように私どものことを心にかけてくださるのは、神さまの愛が無条件だからです。私どもが神さまの愛を受けるに価するようなことをしたから神に愛されるのではありません。神に愛される資格、条件を私どもはもっておりません。神さまが無条件に一方的に愛してくださっているからです。その神さまの愛を信じて私どもは信仰に生きています。


神さまの無条件の愛に生かされている私どもは、それ故に、無条件の愛に生きていきたいと願います。神を信じるとは、そういうことです。ですから、主イエスからすれば、主のこれらの教えに従うのが自然でしょ、となるわけです。


主イエスは私どもに、罪人として生きるか、主イエスの弟子として生きるか、問いかけているのです。昔イスラエルの民は、エジプトでの奴隷状態から解放され、エジプトを脱出しました。約束の地を目指して荒野を旅しました。荒野で食糧不足により飢えで苦しむと、彼らはエジプトの肉鍋が恋しいと言いました。奴隷に戻ってもいいから、エジプトで食べた肉を食べたい、つまりエジプトに戻ってもいいと言うのです。


神が与えると約束した土地はすばらしい土地なのです。そこを目指して旅をしている時に、食べ物がないからと言ってエジプトに戻っていいものでしょうか。エジプトで食べ物があるからと言って奴隷の状態に戻っていいはずがありません。そもそも神さまが大いなる力を発揮されたからエジプトを脱出できたのです。食糧不足の解決を神に求めればいいのです。そして実際、神はイスラエルの民に食物を与えました。もしエジプトに戻るなら、エジプトにおいて神がなさった救いのみ業はすべて無駄になります。


主イエスの教えはむずかしいと言って、主イエスの弟子として歩まず、私どもは罪人のように行動してよいのでしょうか。それはエジプトの肉鍋を恋しがることではないでしょうか。十字架の死という主の救いを無駄にすることになるのではないでしょうか。主の教えに従うには、謙遜さが必要です。自分のプライドが恐らく邪魔をするでしょう。しかしプライドこそ争いのもとであり、よい関係を築く妨げになるのです。人を愛せない、自分は薄情な人間であるという悩みは誰もが持ちます。だから敵を愛することはできないというかも知れません。しかし神には不可能はないのです。私どもの生活の中で敵を愛することが問われるなら、それは試練です。勝利すべき試練です。試練によって信仰は磨かれ、私どもはよい関係を築き、愛する人へと造りかえられていくのです。


試しに主の教えに従ってご覧なさい。敵は身近にいるのです。その人に主の教えを実行してみてください。あなたは、主の教えに従うことの幸いを知ることができるでしょう。


「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」。いと高き方というのは、神のことです。主の教えに従う時、あなたは自分が神の子にされたことを実感するでしょう。なぜなら、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあるように、あなたは、自分が神の子とされて父なる神から憐れみの心をいただいていることが分かってうれしくなるでしょう。あなたの心には、愛することができた喜びがふつふつと湧いてくるでしょう。あなたは、身近な人間関係での苦しみや悩みが解決して、神さまをほめたたえる者とされるでしょう。主の教えは神さまの祝福です。


祈り
憐れみに富む天の父、あなたの救いの恵みを軽んじることがありませんように。
罪を赦すだけがあなたの恵みではありません。あなたは私どもを神の子と呼ぶだけではなく、神の子にふさわしいものに変えてくださり、成長させてくださいます。この救いの恵みを信仰を持って受けとめることができますように。主イエスが私の弟子はこのように振る舞うと考えられたごとくに、私どもが振る舞うことができますように。
エジプトの肉鍋を恋しがることがないように、前進させてください。イエス・キリストの御名により祈ります。