クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

福音を知る(2)福音を聞くと戸惑いが

 2002年4月私は金沢元町教会へ赴任しました。どんな説教をして、この教会での牧会を始めたら良いのか考えました。教会の実情はもちろん分かりません。赴任した4月「私は神の子」を主題とする説教を行いました。5月にはペンテコステということもあり、「聖霊」を主題とする説教をしました。しばらくして年配の女性会員から「何人かの人たちが先生の話に戸惑っている」との話を聞きました。そうかも知れないと思いました。視点の転換を告げる説教に戸惑われたのだと思いました。私は金沢元町教会で、視点の転換を意識して説教をしてきました。

 赴任して最初の説教の要旨を以下に掲載します。皆さんはどう思われるでしょうか。ちなみに私は説教要旨を週報と一緒に配布しました。

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本日のメッセージ(2002.4.7)
ルカ 15:11~32 恵みに生きる
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 聖書が伝え私たちが信じる神様は憐れみ深い方です。私に対して神様は憐れみ深い、これが神様の恵みです。

 15章1節で、イエス様が徴税人や罪人を迎えつきあっているのを見て、ファリサイ派の人々はイエス様を批判しました。イスラエルの民は神の民であり、神から律法を与えられていました。神の律法を守る人が神の民にふさわしく、守らない人は神の民にふさわしくないという考えがあり、敬虔と自称する人々は罪人たちと交際をしないのが普通のことでした。

 ここにおいてイエス様とファリサイ派の人々との間で神理解が異なっていることが明らかにされます。イエス様はたとえを三つ話され、神がいかなる方であるかを語られました。

 11~16節において、ある人に二人の息子がいて、弟の方が父から財産をもらって家を出て、財産を使い果たして落ちぶれ、生きることに困った次第が書かれています。

 17~18節でこの弟は、自分の生き方が間違っており、罪を犯していたことに気づきます。彼は悔い改めて家に帰ることにします。「私は息子と呼ばれる資格がない」、これは彼の悔い改めを表す言葉です。20~24節により、彼の父親が息子の帰りを心から待っていたことがわかります。息子が帰ってくる姿が遠くに見えた時、走りより抱きます。父親の息子に対する深い愛がわかります。財産を使い果たしたことを一言も責めないでただ息子の帰りを喜ぶだけです。

 弟息子が「私は息子と呼ばれる資格がありません」と言うと、父親はしもべたちに一番良い服、指輪、履き物を用意させて、「お前は私の息子だ」という気持ちを伝えます。さらには祝宴を始めます。

 29~30節で兄息子は、父親の弟に対する態度に不平を述べています。父親の態度は不公平だというのです。財産を浪費する息子に対して子牛を屠って祝宴を開き、真面目に働く自分のためには祝宴のために子山羊さえ与えないのですから不公平と言えば不公平です。

 この父親は憐れみ深い父であって、行いに応じて報いるだけの父ではないということです。これが大切です。働きに応じた報いを人は受けるべきだと人間は考えます。だからこの父親に対して不公平を感じます。イエス様が伝える神様は、御自分のもとに帰ってくる人に憐れみを惜しまず、憐れみ深い神と共にあることを人が喜びとすることを喜ばれるのです。

 帰ってきた弟は「父は息子として取り扱ってくれるけど、自分は息子としてふさわしくないんだ」と考えたでしょうか。おそらく「自分は息子としてふさわしくないけど、息子として父が扱ってくれるのは本当にうれしいなあ」と考え、父のもとで喜んで仕事をしたと思います。

 兄息子は、真面目に働いているのに、父は少しも報いてくれないと心の底では不満を抱き、不満を持ちながら父のもとで働いているのです。兄息子は不満を抱いてイエス様を批判するファリサイ派の人のことです。彼らは神を信じていても喜びがないのです。あるのは自己満足だけです(18:11)。

 働きに報いてくれる神を信じる人は、自分に働きがあれば自己満足しますが、すぐに人を批判することで分かるように深い喜びと感謝はないのです。自分に働きがない場合、神の報いを期待できず、自分をだめな信仰者と思って喜びのない信仰生活を送ることになります。

 イエス様が伝えようとしている神は、憐れみ深い神です。神様のもとに帰ってくる人を無条件に愛し、受け入れる神様です。私たちは神を「天の父」と呼びます。私たちは「神の子」なのです。私たちは「神の子と呼ばれる資格」がない者ですが、この私たちの姿を見つけるや走り寄り、抱きしめてくださる神を父と呼んでいるのです。

 この世の中は能力のある人、働きのある人が受け入れられ、認められ、報われる世界です。しかし信仰の世界は違います。私たちを無条件に愛し、神の子としてくださる神の憐れみを喜ぶのです。恵みとしての神の憐れみが自分に注がれていることを信じて喜ぶのです。そこに信仰生活の出発点があります。

  1. 神の子とされていることを心から喜びましょう。
  2. 喜ぶのに妨げとなることが何かありますか。何ですか。

 

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これも椿 散歩道にて