クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 ルカ 10:21〜24
説教 神の喜びは、わが喜び

→今日のテーマは「喜び」です。
新約聖書の中にあるフィリピの信徒への手紙を読むと
「喜びなさい」という命令が書かれています。
テサロニケの信徒への手紙には「いつも喜んでいなさい」と書かれています。
NHKの朝の連続テレビドラマでカーネーションという番組があります。
主人公には三人娘がいます。
主人公は、末の娘のことを「アホ」といいます。
なぜなら、彼女はいつもニコニコしているからです。
いつも喜んでいることができるものなのか、
もし喜んでいる人がいたら、その人は、アホちゃうかって
人から思われてしまうものなのでしょうか。

→今日の聖書、21節にこう書かれています。
「イエス聖霊によって喜びにあふれて言われた」。
エス様は「喜びいっぱいだったのです」。
一体何で、イエス様は、喜びにあふれたのでしょうか。

→21節に、「その時」とあります。
弟子たちは、イエス様の名によって悪霊を追い出すことができたと喜んで報告しました。
この報告を聞いたとき、それが、21節の「その時」です。
この弟子たちの喜びを受けて、イエス様も喜んだのでしょうか。
違うように思います。
エス様は弟子たちに浮かれるな、と警告さえしたのです。
またイエス様の喜びは聖霊による喜びだと書かれているからです。
エス様は何を喜ばれたのでしょうか。
この問が今日の説教の出発点です。
→イエス様は、喜びにあふれて言います。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」。
エス様は神様を賛美しています。
大いなる喜びを与えられて神様を賛美しているのです。
賛美の理由が次に書かれています。
「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました」。
ここには神様のみ業が書かれています。
その神様のみ業の故に、イエス様は、神様をたたえているのです。

→ここで問題は、「これらのこと」が何を指すのかが、明白でないということです。
「これらのこと」というのは、知恵ある者、賢い者には隠されているのです。
そして幼子のような者には示されているというのです。
「幼子」と訳された言葉は、未成年、未熟者と訳すことのできる言葉です。
知恵ある者、賢い者は、しっかりした考え、判断力を持っている人のことです。
しかし、幼子、未熟な者は、人の教えを受け入れやすい存在です。
まだ自分のしっかりした考えがないからです。判断力がないのです。
うっかりすると間違った教えさえ受け入れかねないのです。
素直といえば素直です。
エフェソの信徒への手紙には、未熟な人とは、
「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」人だと書かれています。
神様は、そういう未熟な人、幼子のような人には示し、
知恵ある人、賢い人には隠したことがあるのです。
それが「これらのこと」なのです。
これは一体何のことかと考えさせられます。
ヒントは22節にあるように思います。

→22節にこうあります。
「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」。
子、それはイエス様のことです。
父、それはイエス様の父である神さまのことです。
エス様によれば、神がどういう方かを知るのは、
エス様と、イエス様が示された人だけだというのです。
エス様が示そうとされない人は、神を知ることができないことになります。
つまり隠されているわけです。
でもここで、イエス様は意地悪をして、ある人々には、神様のことを知らせないようにしているわけではありません。

→イエス様は、神の国を宣べ伝えました。
神様のご支配がここにあると宣べ伝えました。
そして病気を癒やし、悪霊を追い出しました。
またイエス様の教えは、人々の耳に、とても権威ある教えに響きました。
「これらのこと」とは、神の国のことと言ってよいと思います。
神の国がここに来ているということです。

→ファリサイ人とか律法学者とか呼ばれている人々がいました。
彼らは神の教えを研究し、学び、神の教えを守っていると自負していました。
彼らはイエス様に対してどういう態度を取ったのでしょうか。
エス様が会堂で病人を癒やすと、安息日の戒めを破っていると非難しました。
そのために、彼らは神のご支配があることを知ることができませんでした。
理解することができませんでした。
エス様を通して神様のご支配が現れていることを
神様が彼らに隠されたのです。
それは同時に、自分たちは神の教えを知っているという自負のために、
神様のご支配を見て取ることができなかったと言うこともできます。

→22節で「父なる神がどういう方であるかを知る者は、
子と、子が示そうと思う者のほかには誰もいません」とあります。
ファリサイ派、律法学者たちは、
自分は誰よりも神様ことをよく知っていると自負しています。
神様の教えを守っていると自負しています。
その自負のために、
エス様を通して神様のご支配が現れていることを知ることがなく、
エス様をお遣わしになった神様のことを知ることができませんでした。
彼らには、神様がいかなる方か、隠されてしまったのです。

→むしろ幼子のような人、未熟な人こそ、
エス様の働きを通して神様のご支配を見ることができたし、
神様がいかなる方であるかを知ることができたのです。
神様がご自分のことを知らせようとするとき、
幼子のように受け入れる人が、神様を知ることができるというのです。
あれこれ理屈をつける人には、神様のことが隠されているというのです。

→そしてこのように、神様は、素直な者にご自分をお示しになり、
知恵ある者、賢い者に自分を隠されたことは、
神様にふさわしいことだと言って、イエス様は神をたたえたのです。
喜びに満ちあふれたのです。
エス様はご自分が、メシア、救い主であることを示されたのです。
律法学者たちは、イエス様のことを安息日の戒めを破る人、
神を冒瀆する者としてしか、見ることができませんでした。

→誰が神を知ることができるのか、それは知恵ある者、賢い者ではない。
むしろ知恵のない者、無学な者であると、パウロは言います。
コリントの信徒への手紙一1章19節以下でパウロ
神が次のように言われていると旧約聖書を引用します。
「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さを意味のないものにする。
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。
この世の論客はどこにいる。
神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。
それは神の知恵にかなっています。
そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じるものを救おうと
お考えになったのです」。

→人が神を知るのは、聞くことによってです。
神を宣べ伝える者の話を聞くことによってです。
神を宣べ伝える者の行動を見ることによってです。
エス様は、病気を癒やし、悪霊を追い出し、権威ある教えをされたのです。
ファリサイ派、律法学者たち、神の教えに通じているはずの彼らは、
エス様を受け入れませんでした。

→賢い者が信じないで、幼子のような者が信じるようにして
救いを与えようとする神様の業、それをイエス様はたたえたのです。
そして喜びに満ちあふれたのです。

→そこで皆さんは思うでしょう。
何でそんなことが喜びになるの?
何でそんなことで喜びにあふれるの?

→どうしてイエス様は、喜びにあふれたのでしょうか。
エス様は、聖霊によって喜んだとあります。
聖霊の導き、聖霊のお働きによって喜びが与えられたのです。
聖霊が与えてくださる喜びというものがあるのです。
聖書がいつも喜んでいなさい、とか、喜びなさい、と命じるのは
聖霊が与える喜びを喜びなさいという命令なのです。
うれしいことがあったら喜ぶのに、聖霊の導きは必要ありません。

→21節の最後に「そうです、父よ、これは御心にかなうことでした」とあります。
知恵ある者に隠し、幼子のような者に示されるという神様のやり方、
それはまことに神様にふさわしいものです、とイエス様は言うのです。
「み心にかなう」とは、神様の喜びそのものであるということです
神様の喜びを、イエス様も大いに喜ばれたのです。

→イエス様の喜び、それは神様の喜びを自分も喜ぶ、そういう喜びです。
神様の喜びを、私どもも喜ぶように招かれているのです。
神様は、私の喜びをあなたも喜びとしなさいと語りかけているのです。

→このことがよく示されているのは、放蕩息子の譬えです。
放蕩に身を持ち崩した息子が帰ってきたとき、父は宴会を開いて喜びました。
帰ってきた息子の兄は、放蕩に身を持ち崩した弟を歓迎しませんでした。
まじめに働いている自分のために宴会を開かず、
財産を使い果たし、落ちぶれて帰ってきた息子のために宴会を開く父を非難します。
父は家に入ろうとしない兄のもとに出向き「喜びを共にしよう」と言います。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかった。
私の喜びを共にしないか。
私と共に喜んでくれ」と父は兄に語るのです。

→神は言われるのです。
私の喜びをあなたも喜ばないかと。
ここに思ってもいない喜びが私どもに備えられているのです。
神が喜ばれることを喜ぶという喜び。
自分が喜びたいことを喜ぶというのではないのです。
自分が喜びたいことを神よ、与えてくださいというのではないのです。
私の祈りをかなえてください。そうすれば喜べます、というのではないのです。
神様が喜びたいことを喜ぶのです。
エス様は喜びにあふれました。
それは、神様の喜びを喜んだのです。
これは聖霊の働きにより与えられるものです。
ですから、喜びは聖霊の実と言われています。
あなたの前には、神の喜びが備えられているのです。

→「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」
弟子たちが見ているものを見る目、それはあなたの目です。
弟子たちは神様のご支配を見ました。イエス様が救い主であると信じました。
そしてあなたも主イエスを信じました。
あなたは説教を聞き、聖書を読み、神様のご支配が今もここにあると信じ、
神様があなたと共にいてくださると信じ、信仰に生きています。
聖書を通して、あなたの目も神様のご支配を見、イエス様を見、イエス様を信じる者とされました。

→そのあなたこそ、神様の第一の喜びです。
「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(15章)。
あなた自身が、神の喜びだとイエス様は言っているのです。
神の喜びを喜ぶなら、あなた自身が喜びの対象なのです。
これは聖霊による喜びと言うしかありません。
神様の喜びの第一は、あなたです。
そしてあなたはいつでも、あなた自身を喜ぶことができます。
喜びなさいという命令、それはあなた自身を喜びなさいという命令です。
罪赦され、神の子とされたあなた。
神は喜びをもってあなたを子と呼び、あなたから父と呼ばれることを喜びとされるのです。

神の喜びをわが喜びとする、それがイエス様の喜びです。

祈り

天の父
あなたの喜びが私の喜びとすることを教えられました。
神様の喜びが私の喜びです。
あなたの喜びはいつも私どもの前に備えられていると信じます。
そして私ども一人一人があなたの喜びであることを知ります。
それ故、私どもが、自分自身を心から喜ぶことができますように。
そしていつも喜んで信仰生活ができるように助けてください。