クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.12.5)
聖書 ルカ2:21〜40 わたしは見た


 風は目に見えません。木の葉が動くのを見て、あるいは肌で感じて、あるいは時にはゴーっと鳴る音を聞いて、風の存在を私たちは知ります。詩人は、「風を見た」とか「風を聞いた」とか、言うのではないでしょうか。神様ご自身は見えませんが、神のみ業を見たとき、私たちも神を「見た」と言うのではないでしょうか。シメオンは、「神の救いを見た」と言いました。「救い」そのものは、見えません。でも彼は「見た」と言います。「献げる」という説教題を予告しましたが、今日の説教では、この「見た」という言葉にご一緒に注目していきたいと思います。

 ギリシャ語の原文では、「わたしの目はあなたの救いを見た」とあります。「見た」と言うからには、目の前にはっきりとした対象があるはずです。実際にシメオンの目が見たのは、幼子のイエス様です。彼は幼子のイエス様を抱いています。そして彼は「神の救いを見た」と言うのです。幼子のイエス様の姿の中に、神の救いを見ていたのです。


 彼が見た神の救いとはどんなものだったのでしょうか。シメオンは、信仰のあつい人であり、聖霊が彼のうちにとどまっていたとあります。安息日ごとの礼拝で、聖書に聞き、聖書を深く理解していた人でした。シメオンはマリアに、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と語っており、イエス様が死ぬことを暗示しているように思います。イザヤ書の53章には、メシアの苦しみが述べられているので、シメオンはそれを予想していたのかもしれません。頭の中で、メシアが苦しみの死を遂げることを思い描いて、救いを見たと言ったのかもしれません。「見た」という表現は、頭の中にイエス様の死を思い描く以上のものがあります。


 「救いを見た」という表現には、驚きが伴っています。彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。イスラエルの救いをずっと待っていたのです。そして、すでに彼は年老いていました。彼は聖霊のお告げを受けました。「主が遣わすメシアに会うことができる」。それがいつのことかはわかりません。彼はその日の到来を待ち続けました。


 神はメシアを送ると約束しました。それは聖書に書いてあります。ですから幼子を見たとき、その約束が本当だったんだという驚きと喜び、それが「救いを見た」という表現になったのだと思います。信じていたことが本当だったんだとわかって驚き、喜んだのです。それが「救いを見た」という表現になったのではないかと思うんです。いかがでしょうか。


 そして神は約束したことを必ず実現する真実なお方であることにも感動しました。長い間待ち続け、時満ちて神の約束が実現したという深い、静かな感動が、幼子を見ているときに、満ちてきたのです。そして「このしもべを安らかにさらせてくださいます」、つまり、安らかにこの世を去ることができますと述べたのです。


 もう20年以上前にもなりますが、他の教会から、転入会された人がいました。その人は、

「わたしはイエス様に出会いました」

と言うんです。「出会った」とはっきり言うんです。「出会う」という言葉を聞いて、わたしは驚きと違和感を感じました。


 私はそれまで、「私はイエス様と出会った」と語る人に会ったことがありませんでした。多くの人は、「イエス様を信じるようになりました」と言います。イエス様に目に見える形で会うことなどできるはずがないので、違和感を感じました。


 「出会う」と言うなら、目の前に相手がいて、出会うという場面が想像できます。勿論、イエス様は、私たちの前に目に見える姿を持って現れることはほとんどないと思います。その人も実際に、目に見える形でイエス様に出会ったわけではありません。しかし「イエス様に出会った」と言われたのです。


 イエス様によって自分は救われたという感激が強かったのだと思います。それが「出会った」という表現になったのだと思いました。今、私にはそれがわかります。違和感を感じずに、理解できます。私もかつて差し迫った祈りをしたときに、それが鮮やかに聞かれて、神は本当にいるんだ、神は生きて働かれる神なんだと思ったことがあります。「神を見た」とは言いませんでしたが、それに似た思いを抱きました。その時から、私は、生きて働かれる神に信頼する信仰に生きるようになったと思っています。


 私たちは神を信じますが、神は見えませんね。信仰とは、見えないものをあたかも見ているかのようにして生きること、と言えるのではないでしょうか。新約聖書のペトロの手紙にこうあります。

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロ一1:8)。

 キリストを見ていないのに、キリストに直接出会ったかのようなすばらしい喜びに満ちあふれているというのです。「今見なくても信じており」とありますが、「今見なくても、見ているかのように」と言い換えることができるのではないでしょうか。
このペトロの言葉を読んだとき、驚きと共にあこがれを感じましたが、皆さんは、どう思われるでしょうか。この手紙の読者は、イエス様を見ることはできませんが、イエス様が共におられるという確信があったのだと思います。パウロという伝道者は、こんな事も述べています。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(コリント二4:18)。

「見えないものに目を注ぐ」というのは、奇妙な表現です。見えないものは見えないのですから、それに目を向けるというのはおかしいわけですが、見えないものを見ているかのようにして生きる、ということをパウロは述べているのだと思います。


 神さまは、私たちの五感で感じ取ることができないお方です。神を見たい、神の声を直接聞きたいと誰しも思ったことがあると思います。そうすればもっと確信を持って神を信じることができるのに、皆さんも思ったことがあるのではないでしょうか。


 神は目に見えないし、神の声も聞こえない。しかし、私たちが聖書を読むとき、神の語りかけに聞くという言い方をします。聖書を読むとき、心の中で思い巡らしながら、いわば神様と対話し、神様の語りかけに聞くわけです。聖書は書物ですから、これを読んで知識を得るという読み方もあります。私たちは、聖書を読むとは、神の語りかけを聞くことだと教えられています。つまり聞くことができない神の声を聞く、心で聞くのです。


 今こうして、皆さんは説教を聞いています。この説教もまた、神様の語りかけとして聞くように私たちは教えられています。説教もまた神の言葉だからです。説教を、それを語る人の言葉、つまり人間の言葉として聞くと、今日のお話はよかったという感想が生まれます。しかし神の言葉として聞くときには、「神様は私にこう語りかけてくださった」という反応になります。励まされるときには喜びが生まれるし、自分の罪が指摘されたときには悔い改めが生まれます。神の言葉として聞くときには、出来事が起きるのです。


 私たちは神の声を聞くことができると信じます。それは肉声として聞くのではなくて、私たちの心に語りかける神の声です。そのために私たちは祈って聖書を読みますし、祈って礼拝に望み、神の語りかけを祈り求めて聞きます。聖霊なる神が働いてくださるとき、私たちは神の声を聞くことができるのです。だから私たちも「神の救いを聞いた」ということができるのはないでしょうか。私たちは神の言葉を聞いて信じ、救われたからです。


 このあと、私たちは聖餐を受けます。イエス・キリストを救い主と信じている方々にパンとぶどう酒が配られます。そのパンとぶどう酒は何を意味しているかというと、十字架の上で処刑されて死んだイエス様の血と、槍で裂かれた体を意味しています。


 「私の記念としてこれを行いなさい」とイエス様は言われましたが、私たちは、ここにイエス・キリストがおいでになると信じ、弟子たちがイエス様からパンとぶどう酒をいただいたように、わたしたちもパンとぶどう酒をいただくわけです。目に見えないイエス様がここにおられると信じ、イエス様から、パンとぶどう酒をいただくのです。私たちはイエス様を見て、イエス様からパンとぶどう酒をいただくのです。わたしはあなたの罪の償いのために十字架で死んだのだよ、とのイエス様の声を聞く思いで、このパンとぶどう酒をいただきます。見えないイエス様の御手からパンをぶどう酒をいただくのです。


 私たちは洗礼を受けると、イエス様に結びつけられます。イエス様が十字架で死んで、そのあと復活されたように、罪を犯す古い私が死んで、神の命に生かされる新しい私が生きることになる、と聖書は教えています。


 新しく造りかえられた私自身は目に見えないし、そのように感じられないかもしれませんが、私たちは、イエス様の救いの恵みによって、新しく造りかえられていることを信じてよいのです。むしろ、新しくされていると信じて生きるのです。自分を新しく造られた存在と見るのです。


 イエス様はその活動を始めるときに、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えました。神の国は神様のご支配を意味しています。神様のご支配は目に見えませんが、イエス様は、病人をいやし、悪霊に取り憑かれた人たちを癒すことによって、神はおられる、神は生きて働かれる、神様のご支配がここにあると人々に示されました。
神様のご支配は、私たちの目には見えませんが、神を崇め、敬う人たちが神に従う姿の中に、私たちはそれを見て取ることができますし、私たちが神さまに聞き従うことを通して、神さまの御支配を証しすることもできます。


 信仰者は、神の国を目指して旅をします。やがて到来する神の国はまだ見ることはできませんが、教会の中に神さまの御支配を見ることができますし、信仰に生きる人々の中に神さまの御支配を見ることができ、私たちは希望を持って神の国を目指します。信仰の旅を続けます。


 私たちが、生きて働かれる神の御業を見るときには、シメオンのように、大胆に「神を見た」「神のみ業を見た」と言ってよいのではないでしょうか。そのような証しをこの世の人々は待っているのではないでしょうか。