クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

この二週間ほど、思いが千々に乱れ、寝つけない日々を過ごしました。試練にあったのだと思いました。試練とは、

信じていることが不確かに見えること

といえるのではないかと思いました。何が起きたのかというと、ちょっと落ち込むことがありました。それがきっかけだと思うのですが、牧師を隠退する、ということを考えました。


 今私は63歳です。会社員や公務員であれば60歳で定年を迎え、それまで働いてきた仕事を離れます。第二の人生を歩むことになります。この教会にも、第二の人生を歩んでいる教会員の方が何人もおられます。ですから、私も隠退ということを少なくとも視野にいれなければならない年齢になったと身をもって感じました。定年を迎えた方は、定年後の自分の生き方について、いろいろなことを考えられたと思います。


 牧師の場合、神さまに召されてこの働きをしているわけですが、牧師をやめたら、神さまの召しは終わるのか、という問があります。福音を宣べ伝えるという使命は、牧師を隠退しても続くのではないか、そうなら隠退したら、どんな形でそれを継続したらいいのか。あるいは、年金を受け取るようになったら、地方の経済的に弱い教会で牧会したらよいのではないか。


 あるいは、隠退して、一人の信仰者として、生きる、それもよいのではないか。でもどこに住んだらいいのか、知らない土地で住むのは不安もある、と考えます。やはり説教は続けたいので生涯牧師として働きたいとか、思いがあっちこっちに飛びました。さらには、人生の終わりについても考え、何か寂しい気持ちになりました。


 宍戸好子牧師の『ゆうべになっても光がある』という説教集をぱらぱらっと見ていたら、「神の前に豊かに生きる」という題の説教がありました。その題を見て、神の前に豊かに生きる、これがテーマだと思いました。


 また福音は、時代を超えて宣べ伝えられてきました。牧師が立てられ、また次の牧師が立てられ、そのようにして福音が宣べ伝えられてきました。牧師は限られた期間、その務めに当たるのであり、時期が来れば、次の人にバトンを渡すのだと考えるようになりました。気が楽になりました。そういう中で、心の平安を取り戻すことができました。