「あなたは何者か」という神さまの問いかけに対する私の答えは、「私のアイデンティティーは、キリスト者、福音宣教者、キリストの証人」です。具体的にどのようにアイデンティティーに生きているのか、自分を振り返りながら確認しました。
神さまに対して、自分がキリスト者に導かれたことの感謝の応答としてしていることがあります。私にとってはそれがキリスト者として生きることであり、キリストを証しすることであると考えています。
ヨハネ福音書に
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。
キリストは人となられた神の言です。聖書の言葉は神の言葉であり、この言葉によって生きることはキリストによって生きることであり、キリストを証しすることになると私は考えています。
私は御言葉によって歩みます。物事を考える土台を聖書におきます。人間の常識、人間の知恵、人間の考えや経験ではなく、御言葉を生きるための土台とします。そのために日々聖書に親しみ、思いめぐらし、神さまの導きを聞いて歩むようにしています。
御言葉によって生きるために私がしていることはデボーションと呼ばれています。聖書をただ読むだけではなく、思いめぐらし、神の導きを聴き取り、その導きに従うという一連の行動を含みます。エジプトを脱出し、荒野を旅したイスラエルの民が毎日天から降ってくるマナを食べたように、毎日(できるだけ)デボーションを行っています。
デボーションは、聖書を学び聖書の教えを身につけて物事に処するという生き方とは違います。デボーションをする前提として、神さまは聖書を通して語りかけてくださると信じます。そして聖書を思いめぐらしながら神さまの語りかけに聞くという、神さまとの交わりに生きることを目指します。神さまの言葉として受けとめることができるのは、聖霊の働きであり、聖霊の導きを求めて祈ります。
私がデボーションを学んだのは、50歳になる前で、それ以来20年あまりデボーションを続けています。このデボーションは私の説教準備にも大きな力となりました。
私は自分のデボーションを御言葉に生きるための提案というサイトで公開し、キリスト者としての証しとしています。またこれを読まれた方がデボーションを始められることを日々の祈りの課題としています。 また引退してから依頼を受けて説教を行い、福音宣教者としての働きを継続しています。そして語った説教を引退牧師holalaの説教というサイトで公開し、福音宣教者としての働きを続けています。
隠退後に説教できるのは、神さまの導き以外のなにものでもありません。神さま、感謝します。