前からうすうす感じていました。そして時々、そうだなと思うのです。そして、そうだなと思うことが多くなりました。聖書は神の言葉だということを感じるようになってきました。
そもそも聖書という書物の存在が不思議です。一人の人の手によるものではなく、時間の流れの中で言い伝えられてきたものが記録され、それらのものが集まって一つになりました。バラバラに集められたものが、唯一の神を証しし、この神を信じて生きる信仰を語っています。そればかりでなく、この神は人間を罪から救うという人間が考えもしないことを計画しておられました。しかも救い主が十字架で死ぬという、人間の思いを越えた救いです。そしてその救いを世の人々に伝えるために、神はこの歴史の中に信仰に生きる神の民をつくり、支え、導いてこられたのです。
最近、説教の準備のためにロイドジョンズという牧師のロマ書の説教を読んでいます。ロマ書五章の説教だけで、600ページもあります。この説教ほど僕の心を震わせた本はありません。これを読んでいると神さまが備えてくださった救いの素晴らしさがどれほどのものなのかが伝わってきます。その素晴らしさを自分がどれほど味わっているのかと考えることもあります。この救いの素晴らしさを知らないから、教会の伝道は困難なのではないか、とさえ思います。そういう救いを二千年近く前のパウロという人物が書いているのです。そんな昔に。どう考えても人間が考えつく内容ではありません。しかも崇高な救いを書かれています。キリストによる救いは崇高な救いだと私は感じます。聖書は神を証しする神のことばです。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」
と告白します。告白というのは、本来、内から出てくるものです。聖書は神のことばであることを、知識として知るのではなく、信仰の歩みの中で体験的に味わい知っていくことができることは幸いです。私を導き、このような幸いを与えてくださった神さまを心からたたえます。