クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

イエスの与える救いとは

 昨日大阪にある教会で説教をしてきました。語っている途中で熱くなったりして、うれしい奉仕の時を与えられました。以下はその説教です。ちょっと長いですが読んでいただければうれしいです。

 

聖書 マルコ福音書 1章1~8節 エレミヤ書  32章36~42節

説教 「イエスの与える救いとは」

2021/6/27

 

→牧師の働きを隠退し、

毎週の説教準備に追われることがなくなりました。

日々聖書をゆっくりと味わいながら読んでいます。

するとあらためて、

福音って一体何なのかという問いが迫ってくるようになりました。

そこで今日は、福音とは何か、

聖書から聞いてみたいと思います。

→今日はマルコによる福音書の最初の部分を取り上げました。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。

マルコはこれから福音を語ろうとします。

まず彼は預言者イザヤの言葉を引用します。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、

/あなたの道を準備させよう」。

これは旧約聖書イザヤ書40章3節にある言葉です。

「あなたより先に使者を遣わし」とあります。

神さまは救い主を遣わす前に使者を遣わすというのです。

マルコはその使者は洗礼者ヨハネであると語ります。

 

→この洗礼者ヨハネのもとに多くの人々が来て、

彼から洗礼を受けたとあります。

洗礼者ヨハネは、

罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。

そして人々は彼のもとに来て、罪を告白しました。

人々は洗礼を受け、神から罪の赦しを受けたことがわかります。

そしてこのヨハネは、

私より優れた方が後から来られると語ります。

自分はその方の履き物の紐を解く値打ちもないと語りました。

すると来たるべき救い主が与える救いとは一体何なのかという問いが生まれます。

ヨハネは罪の赦しを得させる洗礼を授けたのです。

罪の赦しを得るだけなら、ヨハネの洗礼で十分なのです。

旧約聖書では動物の犠牲をささげて神さまに赦しを求める儀式が定められていました。

 

→ヨハネよりはるかに優れた方は、

救いとしていったい何を与えるというのでしょうか。

それが今日のテーマです。

私たちもイエス・キリストの名によって洗礼を受け、

罪の赦しを受け取ります。

救い主が与える救いとは、罪の赦しだけなのでしょうか。

洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を授けていました。

人々は自分の罪を悔い改めて洗礼を受け、

罪の赦しを得たのです。

するとヨハネより優れた方は、罪の赦しだけではなく、

さらに大きな救いを与えるのではないでしょうか。

もし罪の赦し以上の救いを与えるとしたら、

それは何でしょうか。

皆さんは、どんな救いを期待されるのでしょうか。

→ここで救い主のことを語るのに預言者イザヤに言及されています。

ということは、イザヤ書あるいは旧約聖書を見なければ、

なぜ救い主の登場が待たれるのか理解することができないことを意味しています。

そもそも救い主は、何から私たちを救うのでしょうか。

これを知るためにも旧約聖書に戻らなければならないことが分かります。

 

→旧約聖書は何を語っているのでしょうか。

旧約聖書は、まず神さまがいかなるかたかを語っています。

そして神さまを信じるとはどういうことかを語っています。

長い信仰生活を送っている方は、

神を信じるとはどういうことか、

そんなことは分かっていると思われるかもしれません。

しかしもう一度、聖書に耳を傾けてください。

 

→創世記によると神さまはアブラハムに声をかけ、

神を信じる歩みをするように招きました。

出エジプト記は神さまとイスラエルの民との出会いを語っています。

イスラエルの民はエジプトの国で奴隷として苦しい生活をしていました。

彼らは先祖アブラハムが信じた神に助けを求めて叫びました。

神は彼らを助け、エジプトから解放し、

自由に生きることができる土地へ彼らを導きました。

彼らを導いた後、神さまは、じゃあ元気でね、後は自分たちで生きていきなさい、でも困ったら私を呼びなさい、とイスラエルの民と別れを告げたわけではありません。

むしろ彼らを信仰に生きるように招かれました。

神さまは彼らに十戒と呼ばれる戒めを与えられました。

 

→この十戒の最初の言葉はこうです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。

ここで神さまは、御自分がいかなるかたかを語られます。

イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救いだした神だと自己紹介をします。

さらに「わたしは主、あなたの神」と宣言されるのです。

神さまからすれば、神さまはイスラエルの民の神だから、

エジプトで苦しみ、

助けを求めたイスラエルの民を助けたのです。

「わたしはあなたの神」との神さまの言葉には、

私を神として生きよ、との招きがあります。

「私はあなたの神」と言われたら、

これを無視することはできません。

無視をするとしたら、それは神さまと縁を切ることになります。

 

→神さまにとってイスラエルの民はどうでもよい存在なのではありません。

彼らは神に助けを求めました。神さまは彼らのことを大切に考えていました。

だからイスラエルの民をエジプトから救いだしたのです。

神さまはイスラエルの民のことを「宝の民」と呼んでいます。出エジプト記19章。

大切に思うイスラエルの民に対して、

私はあなたの神であると宣言し、

私を神として生きよと招かれました。

そして神さまは十戒を与えました。

イスラエルの民をエジプトから救いだした神を神として生きるとは、

まず十戒を守ることです。

神さまが与えた戒めを守る、それは神を神とすることです。

 

→神さまはイスラエルの民を「わたしの民」と呼びます。

イスラエルの民は神の民なのです。

神の民として生きるとは、神さまの教え、

十戒を守って生きることを意味します。

神さまとイスラエルの民との間には関係、

結びつきのあることが分かります。

神さまは言います。「わたしはあなたたちの神である。あなたたちはわたしの民である」。

イスラエルの民は言います。「あなたはわたしたちの神です。わたしたちはあなたの民です」。

この両者、

神とイスラエルの民は互いに相手との関わりをもって生きる関係にあります。

このような関係の中に生きる、それが、

神さまが求める信仰なのです。

 

→これと似ているのが夫婦です。

神さまの前で結婚式をするときには、誓いがなされます。

お互いに自分の伴侶を愛することを誓います。

男性からすると、

「私はあなたの夫である。あなたは私の妻である」

女性からすると、

「私はあなたの妻である。あなたは私の夫である」

男性は夫として妻を愛し、女性は妻として夫を愛します。

結婚した一組の男女は夫婦という関係の中に生きていきます。

夫婦として、お互いに関わりをもって生きていきます。

これが聖書の教える結婚です。

 

→聖書が伝える信仰とは、神さまとの関わりに生きることです。

神さまとイスラエルの関係で言えば、

神さまは神としてイスラエルの民にいかに生きるべきかを示す戒めを与えました。

神さまはイスラエルの民を祝福するために戒めを与えました。

神の戒め、それは祝福の手段です。

神の戒めを守ることの中に祝福があります。

神さまは神としてイスラエルの民を祝福します。

さらに神さまはイスラエルの神として、

さまざまな困難から彼らを救います。

イスラエルの民は、神の戒めに従うことを通して、

神を神として崇めます。

そして神さまからの祝福をいただきます。

このように神との関わりに生きること、

神との関係に生きること、

これを神との交わりに生きるといいます。

聖書が伝える信仰とは、神さまとの関わりに生きること、

神との交わりに生きることです。

→エジプトから解放され、

自由に生きることのできる土地に連れて行かれたイスラエルの民はその後どのように生きたのでしょうか。

イスラエルの民は彼らの周辺にいる民族の影響を受けて、

偶像礼拝を行いました。

その偶像礼拝では神の像を造り、

その神に捧げものを献げて礼拝します。

人々は偶像にささげものをし、祈願し、祝福を期待します。

偶像は、人々に何も語りかけません。

偶像なる神は、

礼拝する者たちの願いに答えることが期待されています。

そこには、神と礼拝する者との間に交わりはありません。

 

→イスラエルの民は偶像礼拝をしました。

十戒の最初の戒めは「あなたには、

わたしをおいてほかに神があってはならない」です。

イスラエルの民はこの戒めを破りました。

また「あなたはいかなる像も造ってはならない」との戒めも破り、

神の像を造ってこれを拝んだりしたのです。

彼らは神との関わりに生きることをやめたのです。

強い言い方をすれば、イスラエルの民は神を見捨てたのです。

 

→イスラエルの民はなぜ、偶像礼拝をしたのでしょうか。

それは生まれながらの人間の心に合うのだと思います。

お寺や神社に行く日本人は、お賽銭をささげて、祈願します。

つまり祈りが聞かれればいいのです。

お賽銭をささげた後、向こう側から、

何か戒めが聞こえてきたらどうでしょうか。

きっと祈る気持ちにならなくなると思います。

神さまは、自分たちを祝福してくれればそれでいいのです。

これが偶像礼拝です。

 

→ここには、神さまとの交わり、

神さまとの関わりに生きる信仰はありません。

この偶像礼拝は、私たちにとっても無関係ではありません。

見かけ上は教会で礼拝をささげていても、

神さまから祝福しか求めていないのであれば、偶像礼拝と同じです。

偶像礼拝とは、神さまとの関わりを捨てて、

自分の祝福を求めることです。

偶像礼拝とは、神さまの心を大切にしないことです。

 

→イスラエルの民は偶像礼拝を続けました。

預言者が神さまに立ち帰るように警告しましたが、

偶像礼拝をやめることはできず、

結局、イスラエルの国はバビロン帝国によって滅ぼされました。

それは神さまの裁きでした。

そしてエルサレムにいた多くの人々はバビロン帝国に捕虜として連れて行かれました。

国家は滅び、イスラエルに希望はなくなったかに見えました。

しかし預言者は、イスラエルの国の復興を語ります。

神さまはイスラエルの民を見捨てることはしないと語ります。

実際70年経つと、

イスラエルの人たちはバビロンから帰国します。

→そこで今日読んだエレミヤ書の言葉です。

37節では神さまはイスラエルの民を散らされた場所から集め、

エルサレムに戻らせ、安らかに住まわせる。

そして38節。「彼らはわたしの民となり、

わたしは彼らの神となる」。

ふたたびイスラエルの民は神との関係に生きるようになるというのです。

神との関係に生きる、神との交わりに生きる、

これが信仰なのでした。

仮にイスラエルの民がまた神との関わりに生きるようになったとしても

また偶像礼拝をしないとは限りません。

そこで神さまは言われます。39節~40節。

「わたしは彼らに一つの心、

一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。

わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」。

 

→神さまはイスラエルの民に、神に従う心を与え、

神さまから離れることのないようにすると言われたのです。

イスラエルの民は二度と偶像礼拝をすることがなくなるというのです。

神に従う心を与え、神から離れることのないようにする、

素晴らしくないですか。

もしこれがなければ、

たといイスラエルが国家の再興を果たしたとしても

また偶像礼拝を繰り返せば、神の裁きを受けて、

国家は滅びることになるでしょう。

そうならないように、神さまはイスラエルの民に、神さまに従う心を与えられ、神さまから離れることのないよいにするというのです。

これは素晴らしいことだと私は思います。

すばらしいと思いませんか。それとも自由を束縛されるようで余計なお世話ですか。

 

→預言者イザヤや預言者エレミヤはイスラエルの復興を語りましたが、

残念ながら彼らが語ったようにはイスラエルは復興しませんでした。

しかし彼らの語った預言の中には、救い主、

イエス・キリストにおいて実現したものがあります。

その代表的なものは、イザヤ書53章です。

 

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、

打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、

わたしたちはいやされた。

 

このイザヤ書53章はイエス・キリストの十字架を預言したものと考えられています。

 

→今日読んだエレミヤ書には、神さまは、「またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」と語られました。

イスラエルの歴史は、罪の解決の必要を示しています。

神との関わりに生きようとせず、

自分の人生の幸せだけを追求し、神を見捨ててしまう罪。

この罪の問題の解決を預言者エレミヤは語っています。

神は、神さまに従う心をイスラエルの民に与えるとおっしゃったのです。

以上のようなことを旧約聖書は語っているのです。

このようなイスラエルの歴史を踏まえた上で救い主が登場するのです。

→救い主イエスが私たちに与える救いとは何でしょうか。

それは私たちに「神さまに従う心が与えられ、

神さまから離れることがなくなる」ということです。

救い主は私たちに「神さまに従う心を与え」てくださるのです。

この心を与えられて私たちは神さまに従うようになり、

神さまから離れることがなくなります。

イエス・キリストを信じる皆さんは、

この「神さまに従う心」を与えられています。

聖書が伝える信仰、神さまとの関わり、

神さまとの交わりに生きることができるようになったのです。

 

→私たちは、罪を犯し、罪の赦しを得ることを繰り返し、

息絶え絶えに生きるのではなく、

喜んで神さまの御心に従う歩みをするようになるのです。

神さまに従う心を与えてくださった神さまをたたえ、

神さまを喜び、

神さまを誇りにして生きていくことが可能とされたのです。

新しい心を与えられ、神さまに従い、

神さまから離れないで生きていく、

罪に打ち勝って生きていく、

これがイエス・キリストの福音であると私は信じています。

 

→「神さまに従う心が与えられている」、

これは信ずべきことです。

神に従う心が与えられていると信じて、歩んでいく、

これが信仰です。

そこには罪との戦いがあります。

しかし聖霊の助けを求めるなら、罪に打ち勝つことができます。

イエス・キリストは聖霊による洗礼を授ける方であると洗礼者ヨハネは語りました。

イエスを信じて洗礼を受けた私たちのうちに聖霊は住んでおられます。そして私たちを助けてくださいます。

聖霊の助けを求めるなら、

私たちは罪に打ち勝つことができます。

これが救い主イエス・キリストが与えてくださる救いです。

 

→「神に従う心が与えられている」と聞いて、

皆さんの反応はさまざまだと思います。

わが身を振り返り、そんなことはない、

否定する方もいるでしょう。

他方、そうなのか、それなら信じて歩もう、とおっしゃる方もいるでしょう。

神に従う心が与えられていると信じて歩み、聖霊の助けを祈り、

罪に打ち勝つ経験をした人が、そのことを証ししていくなら、

その証しに励まされて、

「神に従う心が与えられている」と信じて歩む人が次々と生まれていきます。

罪に打ち勝つ証しが広まっていく、

それが信仰に生きる教会です。

イエス・キリストは私たちに「神さまに従う心」を与えてくださいました。

これが福音です。

 

祈り

 イエス・キリストによる救いとして、神さまに従う心が与えられていることを信じ、あなたに従う歩みを続けることができますように。必要なときは聖霊の助けを受けて罪に打ち勝つことができますように。