クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書に描かれている罪(6)イスラエルの民の罪(偶像礼拝)

主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。

 ここにはイスラエルの罪が描かれています。モーセはイスラエルの民を率いてエジプトを脱出しました。モーセの後継者ヨシュアの指導の下、イスラエルの民は神が与えてくださった約束の土地に入り、そこに住みました。ヨシュアが亡くなり、やがて新しい世代が登場します。すると人々は、バアルを礼拝し、先祖をエジプトから導き出した「主を捨てた」というのです。十戒の第一の戒め、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」を破ったのです。それがここで「主を捨てた」と書かれています。主を捨てるという罪をイスラエルの民は犯したのです。

 世代が交代したとき、信仰が受け継がれなかったのです。イスラエルの民は、自分たちの先祖をエジプトから導き出した神のことは聞いて知っていたと思いますが、信じることなく、周囲の民が信じる神を信じ、偶像礼拝をしたのです。

 人間は放っておくとどういうわけか偶像礼拝をしてしまいます。イスラエルの民がその実例です。人はなぜ偶像礼拝になびいてしまうのでしょうか。それは偶像が何も人間に要求しないからだと思います。人は偶像に願いの実現を求めるだけでよいのです。願いの実現のためにはいけにえ、供え物を捧げます。そして願いの実現を求めるのです。奈良には神社仏閣が多いですが、そこに訪れる人は手を合わせ、願いごとをしています。自分の願いが聞き届けられることを求めているのです。

 しかし聖書の神は、神を信じる者との交わりを求める神です。神を信じる者は神との交わり(関わり)に生きるのです。神を信じるとは、神を愛することだと聖書は語ります。神に愛され、神を愛して生きるのが聖書が伝える信仰です。不謹慎な言い方をすれば、これは面倒くさいのです。神に向かって願いごとだけをすればいい、それは人間にとって分かりやすく、都合がよいのです。
 クリスチャンも、神との交わりを重んじなければ、神信仰が願いごとの実現を求めることとなり、偶像礼拝に陥ってしまう危険はあります。

 主を捨てたイスラエルの民に対して神は怒られます。イスラエルの民は周辺の民の支配を受け苦しい思いをします。苦しむ彼らを神は憐れみ、指導者(士師)を立て外国の支配からイスラエルの民を救い出します。しかしまた何十年かするとまた偶像礼拝を行います。このような繰り返しが士師記に書かれています。

 罪とは偶像礼拝をすること。まことの神以外のものを礼拝すること。クリスチャンも自分に都合のよい神をつくり、これを礼拝しかねません。神との交わりを重んじなければ、自分が造った神を崇める偶像礼拝に陥ります。

神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(コリント一1:9) 

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(ヨハネ一1:3)

 

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蝋梅 そこはかとない香りが漂っています