「A長老、こんにちは」
「Cさん、こんにちは。お変わりありませんでしたか」
「はい、おかげさまで神さまに守られて過ごしています」
「信仰について、罪について思いめぐらされましたか」
「はい、あれからずっと考えています。A長老から信仰について、罪についてお話ししていただき、なるほどと思いました。いや、その通りです、その通りですと目が開かれた思いがしました。ありがとうございます。何か霧が晴れたような感じです」
「それはよかったですね。私もうれしいです」
「それはよかったんですが、でもこれからどのように神さまとの関わり、神さまとの交わりに生きていったらよいのか、あらためて考えました。これまでなら、礼拝に出席して神さまを礼拝し、日々、神さまにお祈りして過ごせばいいと思っていましたし、そうしてきました。正直お話ししますと聖書はあまり読んでいませんでした。祈りも、自分の願いを祈るだけでした」
「そうですか。それで」
「神さまとどう関わったらいいのでしょうか。神さまは見えないし、神さまの声が聞こえてくるわけではないし。礼拝のお説教で聞いたことを受けとめて生活していけばいいのかなって思っていました。でもそれでは今ひとつ神さまとの関わりに生きているようには思えないのです」
「分かります。そのお気持ちは。私もそうでしたから」
「それでA長老はどうされたのですか」
「聖書を読むようにしました。神さまのことは聖書を読まなければ分かりませんから」
「聖書をただ読めばいいんですか」
「聖書は読めばいいというものではありません。でも聖書に何が書いているのかを知るためには、毎日少しずつ読むことは大切だと思います。あ、そうそう、聖書を読むときに大切なことがありました」
「それは何ですか」
「聖書は神の言葉だということです」
「神の言葉ですか。どういうことですか。聖書は信仰者にとって有益な本であると私は考えてきましたわ」
「もし有益な本であれば、自分にとって役立つ部分を役立たせればいいわけですよね。聖書を読んで、これはと思うところに赤線を引いて、心に覚えるようにして、時には暗記することもありますね。そうやって聖書の言葉を心に蓄えていけば、いいように思いますよね」
「はい、まあ」
「実は、私はそうしてきたんです。でもあるとき、うちの先生から、聖書を神の言葉と信じるとは、自分の考え方を聖書を土台とすることだと教えられました」
「聖書を土台にですか。普通人って、自分が生きてきた中で、学んだり、経験したことや、常識などをもとにして自分の考え方をつくっていくのではないでしょうか」
「はい、そうです。多くの人はそうしてますね。私もそうでした」
「聖書も自分の考え方の参考にすればよいのではないですか」
「そう考えますよね、ふつうは。私もそうでした。しかしそうすると何が起きると思いますか」
「何が起きると言われても。人は皆、そうやって生きていると思いますが」
「はい、そうです。そこで一つ問題が起きるんです。聖書が教えることと自分の考えが一致しない時どうするか、です。Cさんだったらどうしますか」
「そうですね。私だったら、自分の考えを優先すると思います」
「よく信仰者は言うんです。聖書の教えってむずかしいよね、実行するの無理よね、などと。どう思います」
「その気持ちはよく分かります」
「そうですね。でも信仰って神さまとの関わりに生きることでした。これを考えるとどうなりますか。神さまが『こう考えたらいいよ、こうしたらいいよ』と言われたとき、『私はこう考えたいです。私はこうしたいです』と言ったらどうなりますか」
「え、そんなこと考えたことがありません」
「これが夫婦であれば、どうするか話し合って決めることになります。場合によっては喧嘩になります」
「そうですね」
「神を神とするとは、神さまのおっしゃることに分かりましたと従うことではないでしょうか。神さまはアダムとエバに善悪を知る知識の木の実は食べてはいけないと言われたのに、彼らはいや、自分たちは食べたい、と言って食べました。彼らは神さまに逆らったのです」
「まあ、そうですが、私たちには自分の考えに対するこだわりがあります。これまでの人生をもとにした自分の考えを、それはダメだ、神さまのお考えはこうだと頭ごなしに言われても、素直に分かりました、とは言えないこともあるのではないですか」
「そうですね。その通りです。じゃあ、自分の考えを通して生きていけばいいですか」
「ですから、聖書を読んで自分に参考になることは参考にすればよいかと」
「その気持ちはよく分かります。でも聖書を神の言葉と信じるのが私たちの信仰です。『聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です』(テモテ二3:16)。聖書と自分の考えが違うとき、聖書に合わせるのが正解なんです」
「でも、簡単には、自分の考えを変えることはできませんわ」
「そうです。その通りです。ですから聖書を読むときは、聖霊の導きを祈って読みます。聖書を読み、思いめぐらし、味わうことを繰り返していくうちに、だんだんと聖書が神の言葉であると信じ、聖書を神の言葉とするようになっていきます」
「本当ですか」
「本当です。聖霊は真理の霊とも呼ばれ、私たちを真理に導かれます。言い換えると聖書を神の言葉と信じるように導いてくださいます。聖霊の導きを祈って聖書を読み思いめぐらすことをしてみませんか」
「分かりました。取り組んでみたいと思います」