聖書は、死後の救いについて語ります。これが最終的な救いです。
人は死んだらどうなるのか、確かなことは分かりません。死んだ人は地上からいなくなる、それは確かです。その人がどうなったのか、地上にいる人には分かりません。そして多くの人が、死後どうなるのか、その答えを求めています。そして宗教と呼ばれるものは、死後の救いについて語ります。極楽、浄土、天国、天の故郷、神の国など人が死んだ後に住む場所を教えます。死後の希望を抱き、人は平安を得ます。
私は幼い日に死の恐怖を覚え、この恐れからの救いをひそかに願って生きてきました。答えは簡単には見つかりません。色々あがきましたが結論を言えば、クリスチャンになりました。そして永遠のいのちをいただきました。ようやく平安を与えられ、安心して人生を生きていくことができるようになりました。
来世、彼岸の世界を考えるとき、私が問題にすることは、確かさ、です。天国というものが、そういうものがあって欲しいという人間の願いから生まれたものではなく、天国が確かにあるという確かさ、それを私は問題にします。確かでないものに身をゆだねることはできません。
私が聖書に見いだした確かさ、それはイエス・キリストの死者からの復活です。復活は死がすべての終わりではないことを告げます。復活されたイエス・キリストは、天におられる父なる神のもとに行かれました。それゆえ、神のおられるところ、神の国に私たちは迎えられるとの聖書の教えを私は受け入れることができましたし、喜んで受け入れています。
死者の復活を信じるなんて非常識だと思う人もおられると思います。死んだ人が世界に再び姿を現すなどということは、私たちは経験していないからです。科学的に見ても不合理に見えます。信仰を持つ以前の私はそうでした。理性を捨てなければ信じることはできないとさえ思いました。でも不思議です。神を信じることができたとき、死者を復活させることは全能の神には不可能ではないと考えることができ、何の問題もなく素直にイエス・キリストの復活を信じました。信仰は神の賜物と聖書に書いてありますが、その通りだと思います。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。(ヨハネ11:26)
信仰には疑いがつきものです。信じているつもりでも、本当だろうか、とか、そんなことを信じるのか、信じていいのか、といった思いが湧いてきたりします。このような疑いに決着をつけるものがあります。それは、イエス様ご自身を信用するということです。私はイエス様を信用する、だから、イエス様の言葉を確かなこととして信じる、という立場に立ちます。確かさは与えられるだけではなく、その確かさに立って生きるものなのだと思います。疑いが湧いてくるつど、「私はイエス様を信用する」と口にします。