クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.6.28)
聖書 マタイ 25:32〜41 裁かれる主


人が死ぬ、これは日々起きている日常的な出来事です。死が日常的な出来事と言えるのは、死が他人の死だからです。しかし、自分の家族の死となると、それは大きな悲しみを伴う出来事です。その死を受け入れるのに時間がかかるし、時間がたてば受け入れられるとは限りません。慰めが必要とされますが、慰めの言葉も簡単には見つからないのが現実です。


そして自分の死があります。死をどういうきっかけで意識するか、人によって違うようです。若い頃、東大の宗教学教授の岸本英夫氏の『死を見つめる心』という本を読んだことがあります。ある時ガンを宣告され、死の恐怖を味わったと書かれています。自分という存在が消えることを考える時、死の恐怖を感じるわけです。


西田幾多郎という日本を代表する哲学者は、肉親の死、特にわが子の死経験し、死は別れ、死を悲しみとして経験しています。


自分の死を意識する時、私たちは生きることについて考えるように導かれます。自分の死をいかに受け入れるか、そこから信仰を求める気持ちも生まれます。


使徒信条は、イエス・キリストが今一度この世界に到来し、すべての人を裁くと告げます。最後の審判の日の教えです。そして聖書は、私たちに希望を告げます。その希望に耳を傾けたいと思います。


1.死後の世界、死後の裁きはあるのだろうか 


死後の世界はあるのでしょうか。もし死後の世界がないとしたらどうなるでしょうか。


聖書には、悪人が栄え善人が苦しむのはなぜですか、という問いが神に向けられます。この世では、強い者が勝つ、悪い者が勝つというのであれば、この世に生きることは空しくなります。正義が意味をなさず、愛が軽んじられ、弱肉強食の世界となるなら、この世は地獄となります。



この世に起きている現実の中には、地獄と思える現実が多々あります。インターネットで知り合った者たちが強盗殺人を計画し、若い女性を殺します。殺さないでとの懇願を無視し、殺すのです。この世の出来事とも思えない現実です。あってはならないことが起きるこの世の現実です。だから、神も仏もあるものか、と語る人々もおります。


アフリカでは飢餓で幼くして死ぬ人が多く、何のために生まれてきたのか、と思える現実があります。


ですから、死後の世界があり、この世で辛い思いをした人は、死後の世界では幸せになり、この世で卑劣なことをした人には、裁きが与えられると考えるのは、ある意味自然です。死後の世界がなければならない、と考えてしまいます。だからといって、死後の世界があるという証拠にはなりません。


聖書は、神の裁きを語ります。この世は終わりの時をいつの日か迎えます。イエス・キリストがこの世界にもう一度おいでになり、最後の審判が行われると聖書は告げます。


簡単には信じがたい、絵空事のように思えます。しかし聖書は、神が裁く方であることを告げています。

有名な物語は、ノアの洪水の物語です。神が世界を見渡した時、悪が満ち、堕落した世界になっていました。それは神が人間を造ったことを後悔するほどのものでした。そこで神は、地上に生きているものをすべて洪水によって滅ぼすことにしたのです。


ただし、神の前に正しく歩んだノアに対しては、箱舟を造り洪水から救われるように命じました。ノアの洪水は、神が裁きを行われる方であることを示しています。


さらに、主イエスは十字架で死にました。主イエスは人間の罪を背負って、神の裁きを受けて十字架で死んだとされています。イエスの死は、神の裁きの結果の死です。


ですから、死後の神の裁きがあるとしても、不思議ではないのです。神に造られた人間が、与えられた人生をいかに生きたのか、それを神は問うというのです。


2.聖書が告げる死後の世と裁き 


聖書が告げる死後の世界は、二つあります。一つは、神の国、または天国と表現されています。もう一つは、地獄ということですが、永遠の罰、永遠の火、永遠の破滅、暗闇、などと表現されることもあります。聖書は、二つの世界を述べています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

これは聖書の中でも有名な言葉ですが、永遠の命を得る人と滅びる人がいると語っています。


今日の聖書は、神の裁きを語っています。イエス・キリストが今一度この世においでになり、人間を裁くと書かれています。イエス・キリストがもう一度この世界においでになることを再臨といいます。今日の聖書では、天使を従えて再臨すると書かれています。


このイエスのもとにすべての人が集められ、裁きを受けます。ここでは、最も小さな人に対して親切を行ったかどうかが、裁きの基準になっています。


教会には時々、お金を下さい、食べ物下さい、着る物を下さいと物乞いにくる人がいます。どう対応するのか、いつも考えます。断って、最後の審判の時、あなたは親切にしてくれなかったと言われても困るし、という思いが頭をかすめます。


今日の聖書を読んであらためて思ったことですが、彼らの中にイエスがいるのだろうか、と考えて親切にしたとしても、それは何の役にも立たないことを知りました。今日の聖書は、親切にした人は、自分がイエスに対して親切にしているとは考えていないからです。この人の背後にイエスがいるから親切にしよう、いないから親切にしないというのであれば、それは打算ですね。


こういう聖書を読むと、私は、神はなぜ人を裁き、ある人を神の国に招き、ある人に永遠の罰を与えるのかと考えます。神はどんな思いで裁きを行うのだろうかと考えてしまいます。神は、自分を信じなかった者に対して怒りを燃やして、地獄に送り、報復するとは思えないのです。


なぜなら、神は罪を犯す私たちが一人も滅びることがないようにと、救い主イエス・キリストをこの世に送っているからです。神は憐れみ深い方です。


神は、人間が罪を犯す者であり、神に背く者であることを承知しておられるからです。そして神の願いはすべての人が救われることです。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(テモテ一2:4)。

神の裁き、最後の審判というメッセージは、人に自分の生き方、あり方を考えさせる機会になることは確かだと思います。


今日の聖書のように、裁きが具体的に書かれている聖書の箇所は、他にはありません。聖書の他の箇所では、私たちは裁きために神の前に出るとか、神の前に、自分の行いの申し開きをしなければならないという表現が多く出てきます。


私は若い頃、自分が神の前にひどい罪人であることを悟らされ信仰に入った経緯があります。牧師になっても、自分は頭のてっぺんから足のつま先まで罪で満ちていると思ったこともあります。あれをした、これをしたという罪意識は、わたしの場合は、薄れていきます。そしていつの間にか、自分はいい人間ではないか、との思いになっていきます。神は恵みを下さり、私は地獄にふさわしい人間だと教えて下さいました。


神は私に命を与え、私を救い、私の父となって下さいました。その神に私はふさわしい敬意を払い、神との関係を大切にしているかどうか、と問われた時、神との関係をいい加減にしていると思わされました。神を信じているといいながら、神のみ心を思うこと少なく、自分の思いで生きて、自分の思いで牧師として働きました。


神の恵みを数えること少なく、皆当たり前と考え、感謝することも少なく、私は神を愛することが少ない、恩知らずな人間に思われました。私は自分が地獄に値すると思わされましたし、今もそう思っています。


神がなぜ、どういう理由で裁きを行うのかは、理解が及びませんが、神が裁きを行うことが聖書には明確に書かれています。


今日読んだ聖書の続きには、イエス・キリストが十字架の死に追いやられる物語となっています。


聖書は、神は罪人を救う方であり、そのためにイエスを十字架につけたことを語ります。神は、神を信じない者たちに対して、救い主イエスを送ったのにイエスを信じなかった者たちに腹いせで彼らを裁くわけではありません。神は憐れみ深い方で罪人の救いを願う方だからです。ではなぜ、聖書は、神の裁きを語るのでしょうか。神の裁きを神の憐れみという点から理解しなければなりません。


神は、私たちに神から与えられた命を大切に生きるように警告を与えていると理解できるのではないでしょうか。


聖書は、イエス・キリストを信じる生活へ私たちを招いています。イエス・キリストを信じる生活こそ、人間に真の幸せをもたらすからです。


人間は、神に似せて造られたと聖書は語ります。神に似せて造られた人間が神のように愛に生きるなら、この世界は愛と平和に満ちた世界となります。それが神の願いです。しかし人間は、自己中心的な歩みをし、神を恐れない生き方をし、人を傷つけて生きています。


神は、今の世界を見て、ノアの時代のように、この世界が悪に満ちて堕落した世界と見るでしょう。しかし神は、この世界を滅ぼすことをせず、救い主であるイエス・キリストを送り、救おうとされたのです。

人は皆神の前で裁かれるとの聖書のメッセージは、あなたの生き方はそれでよいのか、という警告だと思います。神の憐れみから来る警告です。マタイ24:36以下に、警告が書かれています。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」。

ノアは箱舟を造りました。それは巨大なものでした。きっと人々はノアになぜ、箱舟を造るか尋ねたに違いありません。ノアは、神が洪水を起こし、地上にいる生き物をすべて滅ぼすことを人々に話したに違いありません。人々はそれを信じませんでした。そして洪水は来たのです。


それと同じように、突然、思いがけない時、主イエスはおいでになり裁きを行うと聖書は告げるのです。


3.私たちは、神に希望をおいて生きる 


私たちは、神の裁きを恐れません。なぜなら、天国は罪人のためのものだからです。天国は罪人が迎えられるところだからです。自分は神の前に罪を犯す者であることを認めた人たちが迎えられるからです。


自分の弱さのために人を傷つけたり、自分を守るために嘘をついたり、人に責任を押しつけたり、果たすべき責任を放棄したり、人間は罪を犯しているのです。自分は罪人であると認め、神の赦しを求めた人たちが迎えられるのが神の国です。


私たちは神の前に出て裁きを受けます。私たちは、心を高く上げて神の前に出ることができます。なぜなら、裁き主であるイエス・キリストが私たちの弁護者でもあるからです。


私たちはキリストを救い主と信じ、罪赦された者たちだからです。「終わりの日が来たなら、裁きの座を見上げて、我が力の限りに心を高く上げよう」と讃美歌にある通りです。


神の裁きを考える時、イエス・キリストを信じない人はどうなるのか、という疑問が生じます。日本のクリスチャンは、信仰を持たない家族の最終的な運命が気になります。クリスチャンは家族の救いのためにいつも祈ります。


この疑問に対する答は、私にはわかりません。わかっていることは、イエス・キリストを救い主として信じる人は救われるという神の約束があることです。ですから家族の救いのために祈り、家族に福音を伝えることはとても大切なこととなります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16:31)。


家族が救われるという神の約束が与えられています。神がキリストを信じなさいという時、それは神の国への招きになっています。


私たちの希望は神にあります。神はイエス・キリストを死者の中から復活させました。イエス・キリストに続いて、神は私たちをも復活させて下さいます。私たちもまた復活し神の国に迎えられる、これが私たちの希望です。


クリスチャンはこの希望を抱き、この世の旅路を歩みます。そして神の国を仰ぎつつ、この世の生を終えます。


神の裁きの時は、感謝をもって神をたたえる時なのです。裁き主である主イエスは、私たちの罪を赦す方です。私たちのために十字架で命を犠牲にした方をほめたたえる思いで私たちは最後の審判を迎えるのです。

祈り

 天の父なる神様、イエス・キリストによる救いを感謝します。あなたは世の終わりに最後の審判のあることを教えて下さいました。あなたの憐れみから来る傾向として感謝を持って受けとめます。
 私たちは親が産もうとして生まれたのではなく、神様の御心によって誕生しました。あなたから命を与えられ、この世に生きる恵みを与えられました。
 あなたの裁きを覚え、謙遜に自分の歩みを振り返り、あなたの御心にかなう歩みをすることができるように導いて下さい。
 天の父、あなたと共に歩む歩みこそ、幸いな歩みであることを私たちに確信させて下さい。そして希望を持って悔いのない人生を全うできるように一人びとりを祝福して下さい。イエス・キリストのみ名により祈ります。