クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝と活動の自粛

 新型コロナウィルスの感染を防ぐために、集会の自粛が求められる昨今です。日曜の礼拝をどうするか、大きな問題です。韓国では新興宗教団体の礼拝がクラスタ(集団感染)を引き起こしました。「安息日を覚え、これを聖としなさい」との戒めから、私たちは日曜日に礼拝を献げています。しかし礼拝が集団感染の原因となることは何としても避けなければなりません。

 密閉空間を作らないために、窓を開け、ドア・玄関を開け、空気の流れを作る工夫がなされます。人と人の間隔をあけるために、間隔をあけて座るように心がけます。たくさんの口から言葉をたくさん出さないために、礼拝の中で歌う讃美歌の曲数を減らしたり、オルガンがメロディーを弾くのを聞くことで賛美に代えるなどの工夫もなされます。私が出席している教会では以上のことが行われています。

 そもそも私たちはなぜ礼拝を献げるのか、基本に立ち帰ることが求められます。教会は二千年もの歴史の中で、礼拝を守ってきました。活動の自粛、外出の自粛が求められる中で、私たちはどうしたらいいのかと考えます。

 礼拝出席は信仰者の義務であるという考えを私はとりません。義務とすると出席することが大切にされ、出席したからそれでいいとの思いから、信仰生活が形式化していきます。義務とすればそれは神が課す義務となります。神が課す義務は最優先にされます。国家が緊急事態宣言をし、外出禁止を命じたら、どうするかです。神の命令と国家の命令、どちらを優先するのか。答えに窮します。礼拝は自主的に参加するものと私は考えます。

 礼拝の本質は、神との交わりにあると考えます。私たちは礼拝において、心を神に向け、賛美し、祈り、神の語りかけに聞きます。神との交わりは日曜の礼拝だけでなく、日々の生活の中で個人的に持つことができます。日曜の礼拝の特徴は、神を信じる者たちの共同の礼拝にあります。教会が行う礼拝であり、信仰者たちが共に集い神との交わりを持つところに日曜礼拝の本質、特徴があると思います。

 礼拝を中止することはありえると私は考えます。礼拝のために集うことは中止することがあったとしても、神との交わりを持つことを捨ててはいけないと思います。最低限自宅で聖書を読み、讃美歌を歌い、祈りをするように信徒を導くことは必要だと思います。説教をする予定の聖書箇所、説教後の讃美歌などを伝え、時間を指定し、場所は離れていても、同じ時間、共に神に心を向けることをしたいと考えます。礼拝はプログラムに従って事を行えばよいものではなく、神との交わりであることをこの際、深く心に留めたいと思います。

 もし私が現役の牧師だったら、以上のことを長老会で発言し、長老たちの意見を聞いて最終的な判断をしようと考えました。

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