私が福音を見直し始めたきっかけは、一つには多くの信仰者が「自分は罪深い」との思いを持っていること、この意識に囚(とら)われていることにあります。二つにはキリスト者のアイデンティティーを考え始めたことにあります。
信仰者が「自分は罪深い」という意識を持っている限り、伝道はできません。イエス様を信じたら「私は罪深い」との思いを持つの、すばらしいでしょ、イエス様を信じてみませんか、と人を教会に誘うことはできません。人を誘う気にもならないでしょう。そもそもクリスチャンとして生きる喜びがあるのでしょうか。私はこのような思いから人々を解放したいと考え、福音が何なのか、考えるようになりました。
信仰者のもつ「わたしは罪深い」との意識を確認するのは、礼拝で長老・役員の方のする祈りです。「教会のかしらなるイエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。この一週間、生活にかまけ、あなたのことを忘れて生きてきました。お赦しください。・・・」といったような祈りがなされます。その祈りが繰り返されるのです。「忘れないようにする努力はしたの」と聞きたくなります。信仰の歩みをあらためようとしていないことが分かります。おそらくどうあらためていいのかわからないのです。逆に言えば、このような罪の告白をすることが信仰生活だと思っているようなのです。あえて言えば、罪の支配下に生きているのにそれが信仰生活だと思っているのです。
そしてこのような祈りを聞いて、疑問に思わない説教者(牧師)がいるとしたら、それは何を意味しているのでしょうか。説教者も同じ考えをもっているということです。福音とは、罪の赦しの福音のことなのです。罪の赦しに限定された福音なのです。しかし福音はもっと広く、高く、深い内容をもっていることは聖書を読めば分かります。
信仰者が持つべき第一のアイデンティティー、それは「神の子」です。洗礼を受け、キリスト者として生き始めたときから、信仰者は「神の子」です。そして神を「天の父」と呼んで祈ります。
アイデンティティーを考える重要な理由は、アイデンティティーがキリスト者が何者かを示すからです。神の子は、キリスト者のアイデンティティーです。神さまは私を神の子と見てくださいます。そこで問題となるのは、人は自分をどう見るか、という自己像です。私が神の子だなんてそんなこと考えられない、信じられないと考えたらどうなるでしょうか。
神さまの目に私は神の子。私の目に私は神の子なんてとんでもない。多くの人は、自己像に立ちます。そこで自己像をぶっ壊し、神さまが私を見るように自分を見るのです。この転換が信仰生活の肝(きも)です。見方をあらためるのです。悔い改めるのです。自己中心の見方にこだわるのをあらためるのです。
ちょうど地球が宇宙の中心で太陽が地球の周りを回っていると考えることから、地球が太陽の周りを回っていると考える転換と同じです。天動説から地動説への転換。自分で自分を見る自己像を知るには聖書は必要ありません。自分を観察すればよいのです。しかし神さまが信仰者をどう見るか、神さまが私をどう見るかを知るには聖書を読む必要があります。聖書は神の言葉です。聖書が語ることに私たちは立ちます。それが信仰者です。