聖書 ルカ 7:36〜50
説教 罪赦されると
→聖書にこんな言葉があります。
- 「人は目に映ることを見るが、主は心によって人を見る」。
- 人は外見を見るが、神は心を見るというのです。
- 今日の聖書の物語は、人を決して外見で見ない、神の愛が語られています。
- そして罪が赦されると人はどうなるのか、そのことが今日の聖書で語られています。
→ファリサイ派のシモンという人がイエス様を食事に招きました。
- なぜイエス様を食事に招いたのか、その理由は書かれていません。
- イエス様と律法について議論をしたかったのかも知れません。
- あるいは、会堂の礼拝で立派な話をした人を食事に招くことは賞賛される行為であったと言われているので、それで招いたのかも知れません。
- 理由は分かりませんが、シモンの家で食事が始まります。
→そこに一人の女性がやってきました。
- 彼女はイエス様がシモンの家にいると知ってこの家に来たのです。
- すると彼女は泣きながら、イエス様の足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐったとあります。
- イエス様の足をきれいにしたのです。
- さらにイエス様の足に接吻しながら、香油を塗ったというのです。
- 当時の食事は、ベンチのような横長のいすに横になって食事をしていたと言われます。
- ですから、イエス様の足に香油を塗るのは簡単であったと考えることができます。
→それを見たファリサイ派のシモンは、心の中で思いました。
- この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに。
- 女にそのようにされるがままにいるなんて非常識だ、というのが彼の思いなのです。
→ファリサイ派というのは、当時の宗教上の一つの立場に属する人々に対する呼び名です。
- ファリサイ派に属する人々は、神の戒めを守ることに熱心でした。
- 神の戒め、それを律法と呼びます。
- そこには、清さを保ち、身を汚さないための戒めがあるのです。
- 汚れた物を食べたり触れたりしないのです。
- 自分を清く保とうとするのです。
- 汚れた食べ物としては、たとえば豚、タコ、イカなどがあります。
- 病気の人に触れてもいけません。
- そうやって身を汚さないようにするのです。
- 何のためにそんなことをするのか、というと神に選ばれた民であろうとするからです。
- 神の民であることを誇りに思えば思うほど、身を清く保とうとするのです。
- 神に選ばれた民は、他の民族の人たちとは区別されなければならないのです。
- そこで神が汚れた物と指定したものは、食べず触れず、身を清くするのです。
- こういう清めに特に注意を払い、神の戒めを守ることに熱心だったのがファリサイ派と呼ばれる人々です。
- その他の道徳的な神の戒め、たとえば十戒は勿論守ります。
- とにかく彼らは身が汚れることは避けるのです。
- そこで、神の戒めを守らない外国人とは接触を持ちません。
- 汚れがうつることを恐れるのです。
- イスラエル人でも、外国人と接触するような人、たとえば徴税人と呼ばれる人、
- あるいは罪深い女と呼ばれる人との接触も避けました。
- 今日の聖書には、ファリサイ派のシモンが、「罪深い女」と考える人が登場します。
- 彼女は遊女あるいは娼婦で、そういう女性として町の人に知られていたのです。
- シモンにとって、そういう女性に体を触れられるなんてとんでもないことだったのです。
- 汚れがうつるからです。
- だから彼女がイエス様の足に触り、香油を塗っているのを見て驚くのです。
- なぜイエスは、なすがままにされているのだろう。自分も汚れてしまうのに。
- イエス様の態度に疑問を感じるのです。
→そんなシモンの思いをイエス様は見抜き、たとえを話されます。
- ある金貸しから二人の人が金を借りていました。
- 一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオン借りています。
- 一デナリオンというのは、労働者の一日の賃金に相当します。
- 一日の賃金を仮に一万円とするなら、一人は500万円、もう一人は50万円、借りていたことになります。
- 二人とも返すお金がなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしました。
- イエス様は質問します。
- 二人の内、どちらが多く金貸しを愛するだろうか。
- 「愛する」と訳されていますが、「感謝する」と言い換えてよいと思います。
- シモンは答えます。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」。
→そこでイエス様は比較するのです。
- あの女性とシモンがイエス様に対して何をしたのか。
- シモンは、イエス様が家に入ったとき、足を洗う水を出さず、接吻の挨拶もせず、頭にオリーブ油を塗ることもしませんでした。
- イエス様を客として家に招いたのに、もてなしをほとんどしなかったのです。
- しかしあの女性は、イエス様の足を洗い、接吻し、香油を塗ったのです。
- どちらが私をもてなしたのか、はっきりとさせたのです。
- イエス様からすれば、この女性が非難される理由はないのです。
- イエス様はシモンの態度を非難したように見えます。
- しかしシモンは、イエス様の言葉を軽く受けとめたと思います。
- シモンはイエス様を歓迎して、あれこれもてなしをする義務はないのです。
- 身を汚すイエス様の態度に納得できないことに変わりはありません。
→でもイエス様はこう言うのです。
- 「この人を見ないか」。
- 何を見ろというのでしょうか。
- シモンは見たのです。「罪深い女がイエス様の足に触れているのを」。
- だから、身がけがされているのにそれを放置しているイエス様が理解できないのです。
- でもこれは外見を見ているに過ぎません。
- 「この人を見ないか」とのイエス様の言葉は、
- 「この人の心を見ないか」との意味です。
- この女性には、イエス様に対する並々ならぬ思いがあって、あのようなことをしたのです。
- その思いを見ないのか、見ることができないのか、とイエス様は言うのです。
- シモンは、この女は娼婦だ、遊女だ、汚れた女だとレッテルを貼るだけなのです。
- 外面しか見ないのです。
- しかしイエス様は、彼女の心を見ているのです。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって人を見る」(サムエル記上16:7)
とある通りです。
→シモンは律法を守り、自分はきよいと思っているかも知れません。
- それは外面に過ぎません。
- そしてイエス様が女のするがままにされているのを見るのも外面だけです。
- イエス様がその女性の行いを受け入れ、喜んでおられるのを知らないのです。
- シモンは人を外面で判断します。それは偏見につながります。
- 人を外面で判断する人は、他の人も自分を外面で判断すると考えてしまいます。
- これもまた偏見です。
- みんながみんな外面で判断するわけではありません。
→人が自分のことをどう思うかを気にする人がいます。
- 人の目に自分がどう映るかを気にするのです。
- 自分の外面を気にするのです。
- 逆に言うと、こういう人は他の人を外面で判断します。
- 人は自分と同じように行動すると考えるからです。
- 自分は人を外面で判断しないと言いながら、
- 人は自分を外面で判断すると考えるのは偏見です。
- 自分は人を外面で判断しないと言うなら、
- 人が自分のことを外面で判断することを恐れる必要はありません。
→しかし、しかし、です!
- イエス様はとらわれのない目で人を見ます。
- 外見で人を見ないのです。
- イエス様は心を見るのです。
- だからイエス様は、シモンの思いを見抜くのです。
- イエス様は人の心を見ます。
- だからイエス様は、ファリサイ派の人たちからは罪人とされる人たちと交際をします。
- 外面的に神の教えを守っているかどうかではないのです。
- イエス様はファリサイ派の人々のことを偽善者と批判さえします。
→さて、この女性です。
- 彼女は、娼婦、遊女であったと思われます。
- それを職業とせざるを得ないのです。
- そうしないと生きていけないからです。
- 好きでこのような仕事をする人はいないでしょう。
- おそらく夫はいないと思われます。
- 自分で働かなくてはならないのです。
- やむを得ないのです。
- 人から「罪深い女」と軽蔑の目で見られていることを彼女は知っています。
- 自分の身を悲しむ思いが彼女の心には満ちているのです。
- そしてそれをどうすることもできないでいたのです。
→ところが彼女は、おそらくイエス様と出会ったのです。
- イエス様が罪人とされている人たちと交際している場面に居合わせたのです。
- ルカ福音書の5章27節以下で、イエス様は、徴税人レビの家に行って食事をしています。
- 徴税人は、罪人とされています。
- なぜなら、イスラエルを支配しているローマ帝国から税金を集める仕事を依頼されているからです。
- つまりローマ人と関わって生きているから、汚れていると見なされているのです。
- イエス様は徴税人レビに「わたしに従ってきなさい」と弟子になるように命じました。
- レビは自分の家で盛大な宴会をします。
- レビの仲間、友人もいたことでしょう。
- 当然罪人とされる人がいるのです。
- その時もイエス様は、ファリサイ派の人々から非難されます。
- 「なぜ、あなたは徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」。
- この場面にきっと彼女は居合わせたのでしょう。
- そしてイエス様が偏見を持たず、罪人とされる人たちと交際している姿を見たのです。
- <多くの人は私のことを罪深い女と軽蔑する。
- しかしこのイエス様は、私のことを外面で判断せず、受け入れてくださる>。
- 彼女はそう考えたのです。
- 自分を受け入れてくれる人がいる、それが彼女に大きな喜びを与えたのです。
- その喜びが、彼女をイエス様のもとに向かわせたのです。
→「あなたの罪は赦された」とイエス様は、この女性に言いました。
- イエス様は彼女を外面で判断せず、彼女をありのままに受け入れました。
- そして「あなたの罪は赦された」と宣言されました。
- 彼女は、仕方がないから、そうするほかないから、と娼婦の仕事を選んでいたのでしょう。
- しかし今イエス様から「あなたの罪は赦された」と言われました。
- 神から「あなたの罪は赦された」という言葉を聞くとき、人は変わるのです。
- 人は変えられるのです。
- 赦しの宣言を受けた時、この女性は解放されたのです。
- 人から罪深い女と呼ばれるのは仕方がないと悲しむ生き方から自由になったのです。
- 仕方がないから、そうせざるを得ないからとの考えに捕われている状態に身をおくことが罪だと知ったのです。
- 私は生きることができる、神が助けてくださると信じて歩む気持が与えられたのです。
- これは私の想像です。
- 罪の赦しの宣言には、人を変えずにはおかない力があるのです。
- この女性も、新たな方法で生計を立てるようにしたと思います。
- 神は罪を赦すとき、人を罪の中に放置しないのです。
- 罪に支配されない新しい命を与え、この命に生きることを可能とするのです。
- イエス様は罪人を無条件で赦します。
- そして罪に支配されないで生きる力を与えられるのです。
- そして新しい生き方が始まるのです。
- 新しい生き方をあなたが始めるのではなく、新しい生き方が始まるのです。
- 罪の赦しには力があるのです。
- 徴税人のザアカイは、守銭奴であったのが変えられました。
- ファリサイ派のパウロは、クリスチャンを迫害していましたが、キリストを宣べ伝える者とされました。
- イエス様を見捨てたペトロは、迫害を恐れずにイエス様を宣べ伝える者とされました。
- イエス様は言われました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:32)
。
- あなたがあなたの罪を悔い改め、神から赦しをいただくとき、
- 神の赦しは、あなたを変えるのです。
- あなたが心から悔い改めるなら、神の赦しの恵みは、あなたを変えるのです。罪の赦しとはそういうものです。
祈り
憐れみをもって私どもを無条件に受け入れ愛してくださる神さまを賛美します。外見で人を判断することなく、心を大事にすることができますように。自分の心を大切にし、人の心も大切にすることができますように。そして罪を悔い改めるときには、真摯にあなたの御前に悔い改めることができますように。あなたの赦しには、私どもを変革する力のあることを信じます。主よ、私どもの罪を赦し、私どもを変えてください。イエス・キリストの御名により祈ります。