クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

罪の呪縛

 少なからぬクリスチャンが自分は罪人であるという意識の中に生きています。イエス・キリストが十字架で私たちの代わりに罪に対する神の怒りを受けて下さったと信じる人は罪が赦され義とされます。信仰者は神の前に正しい人とされます。これが聖書のメッセージです。福音です。なのに自分は罪人であるという思いに縛られているのです。

 キリスト者が罪の呪縛の中に置かれてしまう一つの理由はルターにあるのではないかと思います。ルターが生きていた時代、教会はあるお札を売っていました。以前はこれを免罪符と呼んでいました。当時、信仰者は年に一回教会に行って懺悔をする習慣がありました。懺悔をした後、一定の償いをする必要があったそうです。しかしお札を買えば、その償いをしなくて済むとされていました。しかもお札の効果は死ぬまで有効とされていました。お札を売るのは教会です。そうなると罪を真剣に受けとめることがなくなります。このお札さえ持っていれば天国は約束されたとなります。

 この状況に対して、ルターは行動を起こしました。ヴィッテンベルクにある城教会の扉に95箇条の提題を書いた文書を貼り付け、公開議論を求めたのでした。95箇条の一番最初に書かれている文がこれです。

「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『あなたがたは悔い改めなさい』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」。

 ルターがこの言葉を書いた背景には、罪の償いを免除するお札を教会が販売するという状況があり、罪が真剣に考えられない状況がありました。信仰者にとって悔い改めは大切であることをルターは主張したのです。

 問題は、この文章がひとり歩きをすることです。ルターのこの文章にある背景を無視して、この文章だけを引用して話をするとどうなるか、です。すると「イエス様は、信仰者の生涯が悔い改めであることを求めている」となります。すると悔い改めが信仰者の生涯のテーマとなってしまいます。私たちはいとも簡単に自分の罪をあれこれ心に思い起こし、私は罪深く、悔い改めの生涯を送る者であると考えるようになります。説教でキリスト者の生き方が語られると、自分はそれを実行できないし、時には実行したいと思わない心の頑なな罪人であるという思いが心を満たすのです。昨日のブログに罪の呪縛に捕らわれた人のことを書いておきました。

 信仰者は罪の赦しを受けるだけでなく、神の救いの恵みによって、罪に打ち勝ち聖なる者として生きていくことができます。信仰はもっと喜ばしいものです。その事が忘れられてしまうのは本当に残念です。パウロは勧めます。

「いつも喜んでいなさい」。

 十字架にかけられる前の晩、イエス様は弟子たちのために父なる神に祈られました。

「真理によって彼らを聖なる者として下さい」(ヨハネ17:17)。

 どんなにすぐれた人の言葉でも、その言葉がひとり歩きをすると人を惑わすことになります。ルターの言葉も、ひとり歩きさせると人を罪意識の呪縛に捕らえてしまいます。

 また「イエス様は信仰者の生涯が悔い改めであることを願っている」と説教で語られたのを求道者の人が聞いたら、彼はどうするでしょうか。人生のテーマが悔い改めであるような信仰生活を送りたいとは思わないでしょう。

 

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