心が痛むことがあります。つい先日も心が痛みました。それはある信仰者の文章を読んでのことです。
一日の終わりがくれば、「為さざりし罪をお赦し下さい」と祈ることがほとんどです。「そうしなければならない」「そうすることが神さまの一番およろこびになる道だ」と思いながらもそれができない。「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。
一日の終わりにこのような思いを抱いて終わる、切ないです。また私が最初に牧会した教会で、ひとりの老信徒とが言いました。
先生、私の罪は赦されている、と説教でいつも語って下さい。
最後に牧会した教会で、私が赴任してしばらくしてからある方がおっしゃいました。
説教で罪の赦しは語られるけど、でもあなたがたは罪人だと言われる。
福音とは喜ばしい知らせなはずなのに、自分は罪人であるという意識に支配されているのです。このような意識を持つ人は少なくないと私は思っています。どうしてこのようなことになるのか、考えています。このような意識を持つ限り、伝道はできません。このような意識を持つ事態に人を誘うことはできませんし、誘われても人は断るでしょう。クリスチャンにならなければ罪意識に悩むことはないのです。誰が好き好んで罪意識に悩む信仰の世界に入ろうとするでしょうか。
今日ある神学書を読んでいて、この問題は根深いなと思いました。