クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書が語る救いについて(5)教会に生きる

 多くの人は、自分が生きる上での拠り所として信仰を求めているのではないでしょうか。たしかに信仰にはその役割があります。しかし聖書が与える救い・神さまが与える救いは、人生の拠り所以上のものだと私は考えます。

 イエス・キリストを信じ洗礼を受けた人は教会に属し、教会の一員として信仰生活を送ります。教会はキリストの体です。教会に属するとは、組織の一員になること以上にキリストの体の部分になることを意味します。しかもキリストの体には、他の信仰者たちもキリストの体の部分としています。信仰者はキリストの体の部分として、キリストを教会のかしらとして、他の信仰者と共に、一つになって生きていきます。

コリント一12:7
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

 

エフェソ2:17~21
 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

 信仰者は、聖なる民に属する者、神の家族であると書かれています。信仰者は神の家族に、聖なる民に、キリストの体に属して生きていきます。ここに神さまが備えてくださった救いがあります。信仰者はひとりで生きるのではなく、キリストを中心にして、信仰に生きる仲間と共に生きる、そこに救いがあるということです。

 残念ながらこのことはすぐには理解されないかもしれません。教会の一員として、神の家族の中に生きる幸いが現実にはなかなか体験されないからです。

 私が牧師として働いていたとき、「真の教会のしるし」を学びました。真の教会のしるしとは、第一に福音が正しく説教されていること、第二に聖礼典(洗礼、聖餐)が正しく執行されること、第三に戒規が正しく執行されること。

 そして「教会形成」という言葉もよく聞きました。真の教会のしるしを有する教会を目指すことを目標としました。この真の教会のしるしは、宗教改革の時、カトリック教会に対してプロテスタントの教会はどのような教会なのかを明らかにするものでした。もちろん間違っていません。しかし現代に生きる私たちは、聖書が語る教会像、しかも現在の私たちが福音に生きるときに形成される教会像を目指す必要があると思います。この努力はいまだ十分になされていません。

 ちなみに私は最後に牧会した教会で、教会のビジョンとして『私たちは神の家族』を掲げました。教会の雰囲気が和やかになったように感じています。

エフェソ1:23
 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 教会はキリストが満ちておられる場だというのです。キリストが満ちている場に身を置くことができる、これは大きな救いだと思います。

 

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存在感のある沈丁花