クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

これからの伝道を考える

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エフェソ4:12〜13)


 牧師は伝道者です。伝道をして多くの人を教会に導く働きをします。よく使われるたとえを使えば、羊を産むのは羊であり、羊飼いではありません。牧師の働きは、伝道できる信徒を育てることであり、福音を明確に語ることです。現実には、この牧師の働きが十分になされているかと言えば、なされていないと正直に告白せざるを得ません。


 ある時、福音派の牧師が、「信徒が10人いれば、信徒リーダーが一人いて、少なくとも一人を導くことができる」と語ったことは忘れられません。10人の信徒がいれば、未信者の一人を導くことができるはずだという主張には無理がありません。しかし、この主張通りに事が動いていない教会の現実があります。はっきり言えば、伝道のために語る言葉を持つ信仰者が少ないのです。伝道できる信徒が少ないのです。ですから伝道と言えば伝道集会を開催し、集会に未信者を誘うことが伝道、あるいは礼拝に未信者を誘うことが伝道と言われたりします。確かにそれは伝道ですが、誘うだけでなく、証しをして導くことがもっと大切であると思います。しかし現実にそれがなかなかできないのです。証しができるように牧師が信徒を育ててこなかったし、教会も信徒を育てることをしてこなかったと言ってよいと思います。牧師自身、そのように育てられてきませんでした。


 伝道を考えるとき、原点に立ち帰ることが大切です。証しをできる信徒を育てることです。証しができるとは、自分の信仰生活を喜び、その喜びを話すことができることです。それは立派な話しである必要はなく、罪を犯し、欠け多き者がみ言葉に生かされる喜びを語ることができれば良いのです。


 あるいは成熟した信仰者を育てることです。伝道・伝道と言って受洗者を沢山生み出しても、この人たちを育てることができないと教会から離れることがよく起きます。ですから伝道を考えるとき、人数を増やすことではなく、信仰者の成長を考えることが大切です。今教会に来ている求道者は若い時、YMCAの活動に参加していたが、洗礼は受ける気持ちになれなかったと言います。目の前にいる信仰者の姿を見て、信仰を持ちたいとの決断ができなかったというのです。今は、信仰者の育成を考えるときであり、これが緊急の課題です。


 以前富士山の麓の御殿場教会で牧会をしました。目の前に大きな富士山が見えます。富士山は裾野が広いのです。頂上が高いほど裾野は広いのです。裾野の小さい高い山は存在しません。それで思うのです。頂上の高い教会をつくること。頂上を高くするとは、自立した信仰者、成熟した信仰者、証しをする信仰者を育てることです。愛に生きる信仰共同体を築くことです。キリストを幹とするぶどうの木を育てることです。そうすれば裾野は広くなります。つまり信仰者が増えるのです。これは神学的な思索ではありません。単なるイメージです。でも真実をついているのではないでしょうか。ということで今、金沢元町教会は高齢化をしていますが、お年寄りが喜んで信仰に生き、その喜びを語ることができるようになりたい、互いに愛し合う信徒の交わりを築きたい、聖書の言葉を支えとして、老いの時期を確信をもって平安と喜びを与えられて生きるようになりたい、と考え、努力をしています。

万軍の主はこう言われる。
エルサレムの広場には
再び、老爺、老婆が座すようになる
それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。
都の広場はわらべとおとめに溢れ
彼らは広場で笑いさざめく。
ゼカリア 8:4〜5