クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の御心と向き合うパウロ

 復活のイエスとの出会いにより、パウロの人生は大きく変化します。心はそう簡単に変化についていけないと思います。神の御心と信じてクリスチャンを迫害していたのです。それが全くの間違いであり、神の御心に反することを行っていたと知らされたのです。自分はどこで間違えたのか、彼は自分の歩みを振り返る中で、神の御心と向き合ったと考えます。

 そこでパウロは神の掟には「深み」があることを知ったのではないかと考えます。パウロ自身が属していたファリサイ派の人たちや律法学者たちは神の掟を守っていたかもしれません。でもそれは表面的に守っていただけで、神の掟の深みを知らず、それゆえ、実際には守っているとは言えない状態だったことにパウロは気づいたのです。

 私たちは福音書を読み、イエス様の教えを知ることができます。

マタイ 5:21~22
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

マタイ 5:27~28
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 文字通り人を殺さなくても、姦淫しなくても、人はこの十戒の戒めを犯しているとイエス様は教えられました。ここに神の掟の深みが示されています。十戒には人格を重んずるという教えが根底にあります。肉体の命を奪わずとも、悪口やののしる言葉を投げて人の心を傷つけることは、人格を軽んじるという点で同じだというのです。欲望の対象として女性を見ることは、女性の人格を軽んじることだというのです。

 神の掟のこの深みを知ったパウロは、自分は律法を守っており神の前に義なる者である、律法の義において落ち度はない、との主張をすることができなくなりました。それどころか自分を含め人は皆、神の前に罪人であるとの認識に導かれたのではないかと想像します。

ローマ 3:10~12
次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。

 そこで疑問が生じます。人はみな罪を犯しているとするなら、神の前に正しいと認められる人はいません。それではいったい誰が救われるというのでしょうか。

 パウロは最初期のクリスチャンたちがイエス・キリストを信じる者はその罪が赦されると語っているのを聞いたかもしれません。あるいはパウロは聖書に精通していましたから、たとえばイザヤ書53章をヒントに、イエスは私たちの代わりに罪の裁きを受けたと理解したかもしれません

イザヤ 53:4~5
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 パウロ自身、クリスチャンを迫害するという大きな罪を犯しています。この罪に対してどうしたら赦しを受けることができるのか、そのことも考えたと思います。そして彼が至った結論は、イエス・キリストを信じる者は、その罪が赦され、神の前に義とされるというものだったと想像します。

 この「義とされる」という考えはパウロの特長だと思います。神は、イエス・キリストを信じる者を義と見なす、義として取り扱うと宣言されたことになるからです。神の目に、キリスト者はもはや罪人ではないのです。

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マンサク 2022.2.28 馬見丘陵公園