クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の御心と向き合うパウロ(続き)

 神から御子を示され、福音を異邦人に伝えるように使命を与えられたパウロです。クリスチャンを迫害していたのにキリストを宣べ伝えるように全く歩みが逆転します。心の整理が必要だったと思います。その時、パウロは神の御心と向き合ったと想像します。

 パウロは神の御心と向き合い、神の御心は何であるのか、真剣に考えるようになったと思います。神の御心に背くことは大きな罪ですが、さらに大きな罪は神の御心に向き合わないこと、神の御心に無関心になることだと私は考えています。自分がそうだったからです。神の教えを学び、その教えに真剣に従っていたとしても、キリストを説教していても、神の御心に無関心ということはよくあることです。神の御心に関心を持つ人は神との交わりに生きることを考える人です。

 パウロが神の御心に向き合った人だと考える私が考える理由は、パウロの言葉です。

フィリピ 2:1~6
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 私はこれを読んで、これを書いた人は、神さまの心を知っている人だと感じるのです。さらに

コリント一 13:4~7
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 この文章も、神の御心を知ろうとし、神の御心に生きようとした人でないと書けない文章だと私は感じるのです。神の御心に生きようとしたパウロ、その努力は、神が御子を彼に示したときから始まったのではないかと想像しています。

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