クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

老いの重荷は神の賜物

 年齢を重ね、いかに平安な最後を迎えるのか、という課題に直面しています。老いの時期を平安に過ごすためにも、この課題をクリアしたいと願っています。昨日のブログでは、最近憂鬱な気持ちになることを書きました。

 午前中、老いをどう生きるか、昔読んだことのあるヘルマン・ホイヴェルス神父の本をパラパラッと開きました。その中に「最上のわざ」という詩の紹介がありました。これはクリスチャンにはよく知られた詩ではないかと思います。何度も読み、よく知っている詩です。でも今回あらためて、老人として読むと我がことのように読めました。

 心に留まった言葉がありました。

 老いの重荷は神の賜物

 すごい言葉です。唖然としました。車で買い物に行くとき、最上のわざという詩にこんな言葉があったよと妻に話したとき、私は思わず笑ってしまいました。なぜ笑ったのか、今思うと分かりません。真理であって欲しいが真理であるはずがない、そんな思いがあったのかもしれません。その時思い出した聖句は「あれ」です。

マタイ 11:28
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 重荷を負う人はイエスのもとに行くことが大切と教えられます。まず主に自分の重荷を打ち明けます。

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最上のわざ
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この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

ナズナ 馬見丘陵公園