クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

朝から雪が降ったりやんだり。文字通り、ホワイト・クリスマス。19時半から燭火礼拝。讃美歌の歌詞はプロジェクターで正面の壁に映し出し、大きな声で賛美ができました。以下、燭火礼拝での説教です。
 
聖書 コリント二 1:3〜7
説教 慰めを与えるキリスト


 教会の燭火礼拝にようこそおいでくださいました。朝から雪が降り、ホワイトクリスマスになりました。今日は「慰めを与えるキリスト」と題してお話をいたします。聖書が伝える神さまは、苦しみの中にある人たちに慰めを与えてくださる神さまです。そのことを今日はお伝えしたいと思います。


 人生に苦しみはつきものです。苦しみのない人生というものはありません。神を信じれば苦しみはなくなりますと教える宗教があるとするなら、私たちはだまされないように、気をつけなければなりません。この聖書にも、神さまを信じれば苦しみがなくなるとは書いていません。この聖書は、苦しみから逃げないこと、苦しみに向き合って生きることを教えています。たとえば聖書にこのように書かれています。「今しばらくの間、いろいろな試練で悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明されます」。聖書は、苦しみを試練と考えています。苦しみは私たちの信仰を本物の信仰に近づけるというのです。苦しみは悪いものとは言えないのです。


今日はコリントの信徒への手紙の部分を読みました。3節にこのように書かれています。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」。]

 聖書が伝える神さまは、慰めを豊かに与えてくださる神です。それゆえ、この神さまをたたえるように勧めがなされます。神がどのような存在であるのか、それはいくら考えても分かることではありません。信仰は聞くことから始まる、と聖書に書かれています。私たちは今日の聖書から、神さまは私たちに慰めを豊かに与える神であると聞きます。聖書が伝える神さまが本当に慰めを与える神であるのか、それを客観的に証明することはできません。神が本当に慰めを与えるかたであるということを経験した人の言葉を聞いて、私たちは信じます。
4節のところではこのように書かれています。

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによってあらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。

これは神の慰めを経験した人の言葉です。「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる」。私たちはこれを聞いて、信じるのです。さらに私たち自身が苦しみに直面し、その中で神さまの慰めを経験することによって、神さまは本当に慰めを与えてくださるかたであるとの信仰を強め、また私たちも他の人たちに伝えることができるようになります。


「神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる」と書いてありました。ここで私は不思議に思いました。単刀直入に、神はあらゆる苦難に際して私たちを苦しみから救ってくださると書けば、それでいいのに、と思ったからです。苦しみから救ってくださる、ではなく、苦しみに際して慰めてくださると書いてあるのです。なぜそうなっているのか。「慰め」と書かれているのはとても大切なことだと思いました。


 私たちは苦しみの中にあって、慰めを与えられると苦しみに向き合う力が与えられます。慰めが苦しみに耐える力を与えます。神が必ず救ってくださると信じていても、慰めがなく、その救いがいつ来るのかわからないと、ただただ苦しみを我慢するのでは心が折れてしまいます。心が苦しみによって押しつぶされてしまうこともあります。ですから慰められることはとても大切なのです。聖書には、次のような言葉が書かれています。

「私たちは苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。

 苦難を誇りに思うというのです。驚きです。でもなぜ苦難を誇りに思うのでしょうか。苦難に直面する時、私たちは忍耐をするようになります。解決がすぐに来るとは限らないからです。忍耐はただ我慢をするというのではなくて、神さまから慰めを受け、力を与えられてする忍耐です。苦難に直面して、ただいたずらに嘆くのではなく、神さまが必ず救ってくださると信じて忍耐するのです。その結果、心が強められるのです。心が鍛えられるのです。そして希望が生み出されていくのです。苦難に直面する時、私たちは、救いをもたらす神の御業を期待することができるのです。神がわたしのためにこのようにしてくださったと語ることができる、それは誇りとなります。それゆえに苦難を誇りに思うということができるのです。


 イエス・キリストは次のように教えられました。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 疲れた者、重荷を負う人は、イエス様のもとに行くと休みが与えられるというのです。私たちは苦しみに遭い、解決がこないと、心は重荷で押しつぶされそうになります。しかしイエス・キリストのもとに行く時に、休息を与えられるというのです。イエス様は続いて言われます。

「私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは、安らぎを得られる」 。

 ここにくびきを負うという言葉があります。くびきというのは家畜の首にはめる板のことを指します。通常そのくびきには複数の家畜の首をはめて、家畜を一緒に歩くようにさせます。そしてその家畜に荷車をひかせ、重い荷物を運ばせたりいたします。ここでイエス様は私のくびきを負いなさいとおっしゃいます。私たちが自分ひとりでかついでいった重荷に苦しんでいる時その重荷を横に置いて、イエス様と同じくびきにつながるのです。「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」とイエス様はおっしゃいます。
私たちは重荷を負って疲れてイエス様のもとに行くとき、休息が与えられます。でもそれは一切重荷を背負わなくてよいということではありません。イエス様と同じくびきにつながり、荷物を負うのです。しかしその荷物は軽いのです。イエス様と共に歩む時、私たちは心を軽くして苦しみに向き合うことができるのです。


 苦しみに遭う時、これは何のための苦しみなのだろうかと人は考えるのではないでしょうか。苦しみに意味を見出すことができると、私たちは忍耐しようとの思いが強められます。苦しみの意味がわからないとき、その苦しみは耐えがたくなります。今日読んだ聖書の4節に「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と書かれています。ここには私たちの苦しみは意味があると書かれています。私たちが苦しみの中で、神さまから慰めを与えられる時、私たち自身が苦しみの中にある人たちを慰めることができると書いてあります。私たちが苦しみ、神さまからの慰めを受ける時、私たちは、他の苦しんでいる人たちを慰めることができるのです。苦しんでいる人に共感し、この共感から生まれてくる言葉、行動が苦しんでいる人への慰めとなっていきます。私たちの苦しみには意味があるのです。あなたの苦しみにも意味があるのです。人はしばしば苦しみに直面すると、なんで私はこんな苦しみに遭うのだと嘆きます。自分はなんと可哀想なんだと自分を憐れみます。そして幸せな人をねたんだり、自分の不幸を人のせいにしたり、神を呪ったりします。そこからは何も始まりません。何も生まれません。


 神は慰めを与えてくださる神であり、神が与えてくださる慰めによって私たちも他の人たちを慰めることができます。私たちの苦しみはムダではないし、人の役に立つのです。そのことがわかると、苦しみと向き合う力が与えられ、私たちは苦しみと向き合うことができます。5節には次のように書かれています。

「キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」。

 私たちは何故自分に苦しみが来るのかわからないことが多いです。しかしここには、キリストの苦しみが満ちあふれて、私たちに及んでくる、と書かれています。不思議な言葉です。キリストの苦しみが満ちあふれて、苦しみがあなたに及ぶというのです。まずイエス・キリストが苦しんでいるのです。何を苦しんでいるのでしょうか。イエス・キリストは救い主です。苦しんでいる人がいる、そのことをイエス・キリストは苦しんでいるのです。キリストのもとに来れば人は救われ、苦しみに遭っても慰めを受けることができます。でもそのことを知らずに苦しみの中にとどまっている人がいるのです。人々が苦しんでいる時、キリストご自身が苦しんでいるのです。
 聖書の別な箇所にはこのように書かれています。

「キリストは、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」。

 私たちが苦しむ苦しみ、その苦しみをキリストはすでに経験しているというのです。
キリストは私たちの苦しみを知っているのです。キリストはあなたの苦しみを知っているのです。苦しむ心がどんなものであるのか、ご存じなのです。「だから、大胆にキリストのもとに行こうではありませんか」 と勧められます。キリストのもとに行けば、助けが与えられるのです。私たちは苦しみの中で慰めを与えてくださる方を知っています。だから私たちは苦しんでいる人たちにキリストを紹介することができます。私たちはキリストに代わって、苦しむ人たちに慰めを与えることができるのです。私たちはキリストに用いられるのです。苦しみには意味があるのです。私たちは、苦しみに出会う事を恐れる必要はありません。慰め主なるキリストが共にいてくださるからです。
6節から読んでみます。

「私たちが悩み苦しむ時、それはあなた方の慰めと救いになります。また、私たちが慰められる時、それはあなた方の慰めになり、あなた方がわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」 。

 ここには慰めと苦しみを共にする人々がいます。人は独りで生きるものではありません。人は苦しみを共にし、慰めを共にする仲間と共に生きるものです。教会は信仰者の群れです。教会とは、苦しみと慰めを共にする群れです。教会は慰めの共同体です。苦しむ者に与えられる慰めが、他の人を慰めます。苦しむ者が共に祈り合い、苦しみを共にすることもできます。教会に集う人たちは、神さまがいかにして慰めてくださったのかを分かち合います。そのようにして私たちは互いに励まし合い、慰め合います。苦しみがあっても、なお励ましを受け、力を与えられて生きていくことができるのです。


 教会はキリストの体と言われます。教会のまことの指導者はキリストです。教会は慰めの共同体です。キリストご自身が私たちを慰めてくださるお方です。そのキリストの誕生を今日はお祝いしています。神様に感謝し、神さまをほめたたえましょう。


祈り
天の父なる神様、慰め主なるイエス・キリストを救い主として与えてくださったことを感謝します。あなたが慰めを豊かに与える神様であることを教えてください。イエス・キリストが、私どもの重荷を軽くしてくださる方であると教えてください。私たちの苦しみを知ってくださり、同じ苦しみを味わい、私たちを憐れんでくださるキリストに助けを求めることができることを感謝します。私たちが苦しむ者と共に生きることができますように。苦しみと共に慰めを分かち合うことができますように。苦しむ人たちの上に、あなたの慰めが豊かにありますように。イエス・キリストの御名により祈ります。