ロマ書の7章をディボーションしています。先日読んだ箇所に穏やかならぬ言葉がありました。
ローマ 7:9~10
わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。ローマ 7:11
罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
罪によって私は死んだ、罪は私を欺き、私を殺したとあります。どういうこと?
私の好きな讃美歌502番には、次のような歌詞で始まります。
いともかしこし イエスの恵み
罪に死にたる 身をも活かす
主より賜る あめの糧に
飢えし心も 飽きたらいぬ
同じことを語る聖句はまだあります。
エフェソ2:1
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
これは洗礼を受ける前の私たちが罪のために死んでいたことを告げています。死んでいるとはどういうことなのでしょうか。罪を犯す生活の中で、生きる喜びもなく、死んだに等しいような生活をしているというようなことなのでしょうか。
ヨハネ黙示録 3:1
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
そこで思い出す主イエスのたとえの「あれ」です。放蕩息子の物語です。放蕩息子の兄が、帰ってきた弟を歓迎して祝宴を開いた父に文句を言います。それに対する父の言葉です。
ルカ 15:32
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか
父は、弟息子が家を出ていった状態、つまり父から離れている状態を「死んでいた」と表現し、父のもとに戻ってきたことを「生き返った」と語ります。
神との交わりに生きる人を神は生きていると見、神との交わりに生きていない人を神は死んでいると見ることが分かります。
私は若いとき、死の恐れとむなしさの中にありました。生きているとは名ばかりの生活をしていました。サラリーマンとしてきちんと仕事をして生きていました。生き甲斐を見出そうと一生懸命でした。信仰に導かれ、本当によかったです。