クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(23)放蕩息子のイメージ

 私はローマの信徒への手紙においてパウロが語るキリスト者像を次のように考えています。人はどのようにしたら、このようなキリスト者に近づくことができるのかと考えます。

  1. キリスト者は律法に背いても罪をとがめられず、罪の責めを受けません。
  2. キリスト者は神を知り、神を喜び、神を誇ります。
  3. キリスト者は神の戒めを喜んで進んで行いたいと考えます。
  4. 神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります。

 富士山には主な登山道が4つあります。ルートはちがっても目的とする頂上は一つです。頂上に行くためには、自分に都合のよいルートを選んで登ればいいです。それと同じように上に述べたキリスト者を目指すルートも人それぞれなのか、と思います。自分が目指すルートをイメージとして考えることができたら面白いかなと考えました。

 今回は放蕩息子のイメージです。

 彼は、自分の思い通りに生きたいと考えたのではないかと思います。そして父のもとを去りました。彼には父から譲り受けた財産を換金したお金が沢山ありました。自分が生きたいように生きたつもりでしたが、お金を使い果たし行き詰まりました。飢饉が起きて食べるのにも困ってしまいました。そこで彼は父のもとに帰ることにしました。

 「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人として下さい」と父に話す覚悟をもって家に帰りました。彼は自分を愚かな人間、自分には誇りうるものは何一つない人間、みじめな人間と思ったのではないかと思います。彼は自分に挫折を味わい、自分に幻滅しました。

 しかし家に戻った彼を父は喜び、祝宴を開きました。雇い人のひとりにされても文句は言えないのに、彼を息子として歓迎し、受け入れてくれました。彼は父がいかなる人であるかを発見しました。放蕩し、財産を使い果たした彼を赦してくれました。愚かな自分を大切な息子として、自分の存在そのものを愛し受け入れてくれる父を発見しました。聖書の記述はここまでです。

 これからは想像ですが、彼は父のもとで生きることに喜びを見出したと思います。そして喜んで父に仕えたと思います。父と共にあるという喜びは替えがたい喜びとなりました。

 自分に幻滅し、愛なる神との出会いを喜び、神と共に生きることを喜び神に従う歩みをするというルートです。主イエスを裏切った使徒ペトロはこのルートを歩んだと考えます。

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