クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 暑い日が続きます。昨日はG教会に説教の奉仕でした。暑さのためか、体が疲れているのか、本を読んでいるつもりで寝入ってしまい、バタンという本が落ちる音で目が覚めました。この時点で注意しておけばよかったのですが、また本を読み始めました。するとまた寝入ってしまい、目が覚めたら、特急が降りるべき駅に停車しています。焦りました。ドタバタと電車の中を走り、慌てて降りました。神さまが起こしてくださったのだと思います。感謝です。寝過ごさなくて本当によかったです。こんなこと、生まれて初めてでした。


 あらかじめ特急券を購入するとき、日が当たらない席を取ろうとしたのですが乗ってみたら日が当たる席で、がっかりしました。これはD席でなくA席を指定すればよかったのに、確認しなかったためで、ぼけたわけではありません。でも失敗したことには間違いありません。


 実は前回は、出かける準備をしていたとき、行きの切符はテーブルに置き、帰りの切符は鞄の中に入れたのです。しかし家を出るとき、テーブルの上に置いた切符を忘れてしまい、駅について気づきました。できていたことが少しずつできなくなるのでしょうか。でも私は「ぼけたのかな」という言葉は、口にしません。
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聖書 ヨハネ 1:6〜13
説教 私は神の子
2018/8/12

→「あなたは何者ですか」と質問されたら、あなたは、
どうお答えになりますか。
今日の聖書の少し後、
19節以降にヨハネという人物が登場します。
彼は洗礼者ヨハネと呼ばれます。
彼はヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていました。
すると人々は、
「あなたはだれなのです。あなたは自分を何だというのですか」と質問します。
あなたは何者なのか、と質問しているわけです。
人々に洗礼を授けているからです。
では「イエス・キリストを信じるあなたは何者ですか」と聞かれたら、
どう答えられるでしょうか。
今日の聖書によれば、その答えは、
「私は神の子です」。これが答えです。
イエス・キリストを信じるあなたは、神の子です。
自分が神の子であることに喜びを感じられるでしょうか。
イエス・キリストを信じる私たち一人一人は、神の子です。
このことについて聖書から聞いてみたいと思います。

→このヨハネ福音書は、
他の福音書と比べて一つの特徴があります。
この福音書においてイエス様は、御自分が何者であるかを繰り返し語っていることです。
たとえば、
「私は命のパンである」(6:35)。
「私は世の光である」(8:12)
「私は復活であり、命である」(11:25)。
「私は良い羊飼いである」(10:11)
「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)。
そして「私を信じる者は永遠の命を得る」と約束しておられます。


→それゆえ、イエス様を信じるとは、
エス様がこのような人であることを信じることとなります。
エス様と出会った人たちは、
エス様がこのような方であると信じるかどうか、
信仰が問われたのです。
ヨハネ福音書に登場するユダヤ人と呼ばれる人たちは、
エス様がそのような人物であることを認めず、
信じようとしなかったことが書かれています。
ヨハネ福音書はイエス様が何者であるかを語り、
このイエス様を信じる者には永遠の命が与えられると
私たちに語りかけています。


→そしてこのイエス様を信じる者は、
12節によれば、
「神の子となる資格が与えられた」とあります。
資格が与えられ、神の子となったのです。
私たちイエス・キリストを信じる人たちは、
「あなたは何者ですか」と聞かれたら、「神の子です」と
答えることができます。
あなたは神の子、どう思われますか。


→イエス様を人々に宣べ伝えたパウロも同じことを語っています。
「あなたがたは皆、信仰により、
キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3:26)。
私は、
私たち信仰者が「自分は神の子である」との自覚を持つことは大切なことだと思っています。
なぜなら、そのことによって信仰者とされた喜びと
信仰者として生きる力が与えられるからです。
神さまは、私たちのことを神の子と見てくださいます。
見るだけでなく、
私たちのことをご自身の子として接してくださいます。
「あなたは神の子」と言われてどう思われるでしょうか。


→もしかして皆さんは、自分自身を顧みて、
神の子とは思えないと答えるかもしれません。
ご自分が、神の子と呼ばれるに価する信仰者とは思えないと考え、
そう答えるかもしれません。
そこで問いが生まれます。
あなたは自分が神の子とは思えないと言われます。
しかし聖書は、言い換えると神さまは、
イエス・キリストを信じるあなたは神の子だというのです。
どちらが本当なのでしょうか。

→今日の聖書の12〜13節を読みます。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、
その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、
人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。


→イエス様を信じる者が神の子となるのは、
神によって生まれるからであるとあります。
何らかの人間的な要因によるのではありません。
私たちが神の子となることは、
人間の努力によって達成できるものではありません。
また人間の努力が認められて、その報いとして、
神から与えられるものでもありません。
神の贈り物として、人は神の子とされるのです。
人はイエス様を信じることにより、神から賜物として、恵みによって、
神の子とされます。
「神によって生まれた」とあります。
神のお働きにより、
エス様を信じる人は神の子に生まれ変わるのです。


→この福音書の3章でイエス様は、
「人は水と霊から生まれないと神の国に入れない」とニコデモに語られました。
私たちが主イエスを信じ、洗礼を受けるとき、
私たちは水と霊とから生まれ、神の子に生れたのです。
私たちは、自分がどのようにして神の子にされたのか、
説明できません。
そして神の子にされたという実感があるわけでもありません。
洗礼を受け、神の子として生まれたと言われても、
実感はできないと思います。
私たちは、神さまの御業によって神の子になった、
神の子に生まれ変わった、
と信じることができるだけです。
そして聖書を神の言葉を信じる私たちは、
たとい実感できなくとも、聖書が語るゆえに、
私たちは神の子とであると信じてよいのです。
うれしくないですか。


→イエス様もご自分が何者であるかを信じ、
人々にご自分がいかなる者であるかを語りました。
私たちもまた、自分が神の子であることを信じ、喜び、
神の子として生きていきます。
それが信仰者として生きる、ということです。
あなたがどんな人間であるかに関係なく、
イエス・キリストを信じたゆえに、
神さまは、
あなたを神の子として生まれ変わらせてくださったのです。
私たちは信仰者なので、このことを信じたいと思うのです。

→私たちが、自分が神の子であると信じることは言い換えると、
神さまが私たちの父であると信じることです。
神さまは、私たちの父なる神様なのです。
それゆえ私たちは祈る時、
「天の父よ」と呼びかけて祈っています。
私たちが神さまを天の父と呼び、自分を神の子と考えるとき、
私たちに与えられている幸いがあります。


→まず自分を肯定的に見ることができます。
現実の自分がいかなる者であれ、自分を喜ぶことができます。
何しろ、神の子なのです。
自分が至らない人間であることを知っていても、
その自分を受け入れ喜ぶことができます。
神の子とされているのですから。


→私は牧師として神さまに仕えてきましたが、
自分の足りない点を数えました。
そして自分を責めたり、もっと努力すべきだと
自分に言い聞かせてきましたが、
そこには苦しみしかありません。
神さまは、不足のある私を承知の上で、
牧師としての働きに召してくださいました。
私に牧師として働く実力があるから、
神さまは私を牧師に選んだのではありません。
私には足りない点が色々ありますが、
それにもかかわらず、神さまは私を神の子とし、
さらに牧師の働きへと私を導いてくださいました。
自分は神の子とされていると考えるとき、
私たちは自分を肯定的に見ることができます。


→イエス様が語られた放蕩息子の物語があります。
父親がまだ生きているうちに自分が相続できる財産を受け取り、
それを全部お金に換えて家出をし、
遠い町でそのお金を全部使い果たし、
生活に行き詰まった息子の話です。
自分の家では、
使用人でさえ有り余るパンがあることを思い出します。
そこで一つの決意をもって家に帰ります。
「ここをたち、父のところに行って言おう。
『お父さん、わたしは天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」。
その彼がまだ家から遠いところにいるのを見た父親は、
彼のもとに走りより、彼を抱きしめます。
そして息子が帰ってきたと言って、喜びの宴を開きます。
父親は息子が何をしたのか問うことなく、
彼をわが子として受け入れました。
この放蕩息子も、放蕩で身を持ち崩しましたが、
自分のことを肯定的に受け入れることができたと思います。


→さらに私たちは自分の人生を肯定的に見ることができます。
私たちは神の子として、父なる神に愛され、
その愛の中に生きることができます。
神さまが愛の神であることは、私たちが何の困難もない、
問題のない人生を送ることができることを意味しません。
私たちは困難、試練、時には殉教に直面することもあります。
それにもかかわらず、私たちは神さまに信頼し、
人生を肯定的に見ることができます。
いつも希望を持つことができます。
私たちの人生において起きる出来事で、
意味のないことは一つもありません。
何一つ無駄なこともありません。
長い人生を顧みれば、辛いこと、苦しいことの中にも、
意味があったこと、いや恵みであったことを知り、
神さまの導きのあったことを知ることができます。
私たちは神さまの恵みの証人です。
私たちは、
父なる神に信頼して人生を生きていくことができます。


→さらに父なる神さまは、私たちを用いてくださいます。
神さまにはご計画があります。
「神は、
すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(テモテ一2:4)。
すべての人が救われる、それが神さまの願いであり、
ご計画であり、
そのために神さまは人を用いられます。
アブラハムモーセダビデ、ペトロ、パウロなど
聖書に登場する人物はそれぞれに神さまに用いられる人生を歩みました。
神さまに用いられて生きる、
そこに人間の生きる意味があります。
私たちの平凡なありふれた生活の中にあって、
私たちが神の子として生きるよう神さまは期待しています。
私たちは、
神さまの恵みを証しするものとして神さまに用いられます。
私たちの人生において起きることで何一つ無駄なことも、
意味のないこともありません。
神さまが共にいて、導いてくださいます。
私たちを導いてくださる神さまの御業を見る目を私たちが持てたら、
どんなに幸いなことでしょうか。

→神の子とされた私たちは、神の子として歩みます。
ひと言で言えば、神さまを愛し、
神の子として成長していきます。
ある時イエス様は「最も大切な戒めは何ですか」と律法学者から聞かれたことがあります。
その時イエス様はこう答えられました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。


→父なる神に愛される神の子は、
父なる神を愛して生きるのです。
神を愛するってどうすることなのでしょうか。
神を愛するってどういうことなのか、私は長く悩みましたが、
答えは単純でした。
もし私たちが誰かを愛するなら、
私たちはその人の心を大切にすると思います。
愛すると言いながら、その愛する人の心を大切にしないなら、
それは偽りの愛です。
私たちが神さまを愛するなら、神さまの御心を大切にします。
ですから聖書には、
「神を愛するとは神の戒めを守ること」とあります(ヨハネ一5:3)。
喜んで神さまの戒めを守るようになります。
喜んで、進んで守るようになります。
強制されて、義務感から守るのではありません。
神さまの御心を大切にして、神の戒めに従います。


ヨハネ福音書にはイエス様のこんな言葉が書かれています。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、
父とわたしとはその人のところに行き、
一緒に住む」(14:23)。


→私たちは神の子として生きることができます。
日々の生活の中で、聖書に親しみ、
神の子ならどう生きるかを考えることができます。
そして神の子として生きていくことができます。
私たちには神の子として生きる喜びがあります。
神の子として生きる感謝があり、
神の子として生かしてくださる神さまをほめたたえるようになります。


→自分の家に帰ってきた放蕩息子は、どうなったのでしょうか。
聖書には書かれていませんが、想像はできます。
彼は父のもとで働きます。
以前は、父のもとで働くことがいやだった彼でした。
恐らくそれで家を出ました。
しかし今や彼は放蕩息子ではありません。
父のもとで働くことが喜びになったことと思います。
自分を愛してくれ、
自分も愛する父のもとにいることの幸いを感じながら、
父のもとで生きることを喜びとしたに違いありません。
父と共に生きようとの思いが生まれ、
父と共に生きる幸い、喜びに生きるようになったのです。
神の子とされた私たちにも、
神と共に生きようとの思いが与えられ、
神と共に生きる幸い、喜びに生きるようになります。
神の子とされる、何と幸いなことでしょうか。