クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私は生かされているのか

 時々、「私は生かされている」と語るのを聞くことがあります。でも「誰に」生かされているのかは語られていないように思います。おそらくなにものかによって命を与えられ、自分は生かされていると感じるのだと思います。生かされているゆえに感謝の言葉も出てきます。「私は生かされている」との言葉は謙遜な言葉だと思います。私は神を信じているのに、「神さまに生かされている」という実感はありません。もちろん神さまのご意志によって私が生まれたと信じていますし、私は偶然に生まれた存在ではないと考えています。しかし「生かされている」という実感はありません。「生かされている」とも考えません。なぜなのかと思います。

 なぜ、と特に考えることもしませんでしたが、先日ちょっと考えました。そして分かったように思いました。それは聖書は、私たちに「生きる」ように命じているからではないかと思いました。たとえば悪魔に誘惑された時のイエスさまの言葉。

マタイ 4:4
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 

  人は神の言葉で生きる、と書かれていて、人は神の言葉によって生かされているとは書かれていません。「人は、神の言葉で生きる」との言葉は、人が神の言葉によって主体的に生きることを伝えています。

 ヨハネ福音書には、イエス様を信じる者は生きる、ということが繰り返し書かれています。

ヨハ 5:25
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。

ヨハ 6:51
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。

ヨハ 11:25
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。  

ロマ 6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ロマ 6:8
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

  神さまは、私たちが「生きる」ことを願っておられることを思います。私たちに求められるのは、信仰によって生きることだと思います。キリスト者の誰かが「私は神に生かされている」と語ったとしたら、私は「どんな風に生かされているの」と突っ込みを入れ、その人の証しを聞きたくなります。

 そんな私でしたが、愛が何かを語るパウロの言葉に驚きました。愛が何かを語る時パウロは「愛は忍耐強い」(コリント一13:4)と語りました。パウロは聖書から、神の愛はその忍耐強さにおいて現れていると知ったのだと思います。そこで、神の忍耐強さによって私は生かされているのではないかと思うようになりました。

 神さまは私が真理を悟るのを忍耐強く待っててくださったと思いますし、今も待っておられるのではないかと思います。

 最初の真理は、イエス・キリストが救い主であるという真理。私が洗礼を受けたのは30才。生まれてから30年間、この時がくるのを神さまは忍耐強く待っておられました。二番目は聖霊が私の内に住んでおられるとの真理。イエス様を信じる者は賜物として聖霊を受けると聖書に書かれていますが、それが本当だと知った日が到来しました。聖霊を求めてあがいた日々、神さまは忍耐強く私を待っていてくださったことを思います。

 三番目はキリスト者のアイデンティティーを知ったこと。信仰者として、牧師としての自分の未熟さに思い悩む中で、キリスト者のアイデンティティーを知り、自分を受け入れ、自分を喜ぶ者とされた日が到来しました。神さまは忍耐強く、私が神様に造られたことを喜ぶ時を待っててくださいました。

 四番目は、キリストの福音が罪の赦しと罪からの解放の福音であるとの真理を知ったこと。私を牧師に召し、福音を伝える器として神さまは用いてくださいますが、伝道者として遣わされた時から、長い間神さまは忍耐強く、私が福音が何かを知る日を待っておられたのです。

 神さまは焦ることなく、忍耐強く、私の成長を見守り、導かれたと信じます。神さまの忍耐強さによって私は生かされていたのだと少し感じるようになりました。

 

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奈良盆地。遠くに生駒山。散歩道で。