クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

老いの日々

 一昨日の日曜日県内のG教会の説教奉仕をしました。主任牧師のH牧師が夏休みとのことで代わりに説教をしました。私が石川県の教会を辞任し、牧師を引退し、奈良県に転居した2017年にG教会で数回説教奉仕をしました。H牧師は月一回、他教会の礼拝に奉仕をされており、穴埋めで私は説教奉仕をしました。その時は、G教会には隠退教師のS先生が礼拝に出席しておられ、S先生も説教奉仕をしておられました。S先生と私で交代で、G教会の礼拝に奉仕をしていたわけです。

 それで一昨日の礼拝が終わって、S先生の姿は見えないな、どうされたのかなと思いながら礼拝堂を出ようとするとS先生とばったり出くわしました。S先生は90歳を超え、身長も低くなり、腰が曲がっていて、数年前の面影はなく、S先生だと気づきませんでした。

 S先生の姿を見て、瞬間的に私は聖なるものを見たという印象を受けました。どんなに年老いても礼拝に出席し、神さまを礼拝し続ける姿勢に聖なるものを見たという印象を持ちました。S先生は娘さん家族と一緒に生活をしていると以前聞きました。でも礼拝はお一人で教会においでになります。杖で自分の身を支えながら電車に乗ってG教会の礼拝に来られます。礼拝を大切に重んじておられる姿に感銘を受けました。自分もこのように礼拝生活を続けられるのだろうか、と一瞬思いました。

 私とほぼ同じ年齢の友人から手紙がきました。彼は老人施設で介護の仕事をしています。コロナに感染する職員もいて、勤務はなかなか大変なようです。その彼が言うのです。自分はお年寄りと向き合う時、イエス様と向き合っていると受けとめるというのです。

マタイ 25:40
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

 この聖句を思い、お年寄りの介護をされているとのこと。この友人も信仰に生きていることを思わされました。

 そして私は今朝も朝食の用意をしながら、毎日単調な生活、昨日と同じ生活を繰り返していることを思いつつ、この一日一日が大切な日々なのだと思いました。若い時は永遠に生きるような気持ちでいましたが、今は違います。自分の人生がいつ終わるのかは分かりませんが、終わりがそう遠くないことは分かります。こうして生きる一日を感謝できるのは老いた人間の特権かもしれません。

マルバルコウ 散歩道