クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神を愛するようになる(3)

(クリスチャンの成長(71)キリストに結ばれて- 29)

 私が神さまを愛するようになった第二のきっかけは、キリスト者としての私は「神の子」であると信じたからです。

 洗礼を受けると人はクリスチャンと呼ばれます。クリスチャンってどんな人のことを言うのでしょうか。教会に来ればそこにいる人たちは皆クリスチャンです。色んな人がいます。自分はどんなクリスチャンになるのがいいのか、考えるかもしれません。説教を聞く中で、聖書を読む中で、クリスチャンとはこんな人というイメージを持ち、そのイメージに近づくよう私たちは努力するかもしれません。でもなかなかそこに到達できないのが現実ではないかと思います。自分が目指すクリスチャン像、自分が理想とするクリスチャン像にはなかなか到達できません。そうなるとクリスチャンとしての自分をどう思うでしょうか。クリスチャンである自分を喜ぶことができないかもしれません。

 私は洗礼を受けてまもなく神学校に行き牧師となりました。信仰者としてまだ未熟なのに牧師となり説教をするようになりました。一人前の牧師となることを目指しましたがどのような牧師になればいいのか、分かりませんでした。牧師である前に自分はクリスチャンです。キリスト者とは一体どのような人のことを言うのか、きちんと理解できていませんでした。単に何か理想的なイメージを頭の中で作っていただけです。

 自分が定まらなかったのです。あるべきクリスチャンのイメージに向かっている自分はふらふら動いているのです。定まらないのです。だから地に足が着いていないのです。

 ある時、キリスト者のアイデンティティーを知りました。アイデンティティーとは、自分が何者であるかということです。キリスト者とはどのような人を言うのか、知りました。キリスト者とはどのような人のことを言うのか、実は聖書が明確に書いているのです。聖書はキリスト者はこうあるべきだという理想を書いてはいません。キリスト者は現実にこういう人なのだと聖書は書いています。クリスチャンのアイデンティティーを知って目が開かれました。

 第一のアイデンティティ、それはキリスト者は「神の子」であるということです。神はキリスト者の父となってくださり、「天の父よ」と呼びかけて祈ることを許される神です。イエス・キリストを信じる私たちを神は「神の子」と見てくださると知ったとき、私の心は定まりました。何か理想的な信仰者像を目指す必要はなく、神の目に自分は神の子であることを徹底して信じることの大切さを知りました。なぜなら聖書がそう教えているからです。

ガラテヤ 3:26~27
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

 洗礼を受けた人は皆、キリストに結ばれて神の子なのです。自分の目に自分がどのような信仰者であれ、私は神の子とされています。ここに私は立つことができました。ここに立つことにしました。キリスト者とは何者か、キリスト者は神の子なのです。そして私は神の子です。

 私は自分が罪深い者であると知っています。私の心はいつも自分に傾き、神のみ心を忘れがちだからです。神のことより自分のことを考えてしまいます。しかし私は神の子です。自分の目に私は罪深い者であったとしても、神様の目には私は神の子です。本当の私は、神の目に映る私、つまり神の子です。

 自分が神の子なら、天の父なる神様のみ心を大切にし、み心に従いたいと思うのは自然であり当然のことです。神さまの戒め、掟に進んで従いたいと考え、行動します。神の子が天の父に従うのは当たり前です。イエス様は神の子であり、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に歩まれました。もちろんいやいやながらでもなく、仕方なくでもなく、従順に歩まれました。神の子として進んで父なる神のみ心に従われたのです。

 イエス様が語られた放蕩息子の物語は、罪を犯し悔い改めた息子を我が子として愛するのが父なる神であることを教えています。

 私は自分が神の子とされていることを受け入れ、これを喜びとしました。つまり父なる神は私を愛し、私を子としてくださったので、私も父なる神を愛し、神の子として生きていくことにしました。ですから神さまの教えに従うことは義務でもなく、むしろ喜ばしいことと受けとめています。

ヨハネ 14:21
わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。

ヨハネ 14:23
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。

上に引用した「わたし」はイエス様のことです。私はイエス様も愛します。

 

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