クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

共感と他人事(ひとごと)

 来週月曜眼科を受診し手術の日が決まる予定です。手術する身になって分かったことがあります。30年以上も前になりますが三重県の鳥羽教会で牧会していた頃、私の父が肺がんになり手術を受けることになりました。東京に行き、手術に立ち会いました。父の手術は、私にとって他人事(ひとごと)でした。つまり私は手術を前にして父がどんな気持ちでいるのかについては、関心がなかったのです。冷たい息子かもしれません。私にとって父の手術は他人事(ひとごと)だったのです。もちろん心配はしましたし、祈りました。しかし手術を受ける立場に自分を重ね合わせることはできませんでした。

 今私が礼拝出席している奈良高畑教会の教会員のひとりの姉妹が以前ガンの手術をされました。共に祈祷会に出席していたので、姉妹のために祈りました。でも彼女の気持ちまで思いを馳せることはできませんでした。他人事だったのです。

 この姉妹が教会が出版する小冊子に手術をめぐっての文章を書いておられました。それを今読むと、自分と重ね合わせて読むことができます。共感して読むことができます。手術前の不安、信仰の友の祈りによる励まし、讃美歌のテープを聞き得た平安、主にゆだねる祈り、などそこに書かれていることに対して、気持ちを一つにすることができて感謝でした。この姉妹に起きた出来事は、他人事ではなく、自分のこととして受けとめることができました。

 かつて牧師として働いていたとき、入院している教会員のもとに行き、聖書を読み、短く話をし、また話を聞き祈ってきました。でも教会員の心に自分の心を重ね合わせることはできませんでした。その意味では他人事でした。

 でも今思います。他人事でよかったのです。もし自分の心を彼または彼女の心に重ねていたなら、自分が恐れや不安、苦しみ、孤独、寂しさなどに共感していき、自分を保つことができなくなると思います。他人事だからこそ祈ることができるし、聖書を読み、聖書から励ましや慰めの言葉も語ることができると思いました。

 そして今、自分が手術を受ける立場になって見ると、共感を持つことができるようになりました。これはこれで大切です。共感を持つことも、他人事でいることも、それぞれ大切なのだと気づきました。

 

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