クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 久しぶりのブログになってしまいました。今日は、金沢刑務所に行きました。グループ教誨といって、聖書の話を複数の受刑者にします。いつもは10名ほどいるのですが、今日は少なめでした。テーマは「神は不公平か」です。


 最初に私たちは不公平を経験することを伝えました。裕福な家に生まれる人がいれば、貧しい家に生まれる人がいます。勉強の好きな人がいれば苦手な人がいます。容姿のすぐれた人がいれば、そうでない人がいます。不公平が存在します。聖書の最初にカインとアベルの話があります。二人とも自分の仕事で得たものを神に献げましたが、神はアベルの供え物を受け入れました。カインは、神の行為を不公平と受け、怒りを感じました。彼は怒りを神にぶつけることができなかったので、アベルに向け、彼を殺してしまいました。皆さんも、不公平を経験してこられたのではないでしょうか。これが導入です。


 そこでルカ福音書15章の放蕩息子のたとえを読みました。受刑者にも聖書が渡されているので、輪読をしました。この箇所を読むのは三回目です。今回は兄息子を中心にしました。弟息子は行き詰まって家に戻りました。彼の父は喜び、祝宴を催しました。それを見て、兄は怒りました。財産をもらい、それを放蕩で使い果たして落ちぶれ、帰ってきた息子に対して父が祝宴を開くことに納得できないのです。兄は真面目に働いているのに、父は、友人と楽しむために子ヤギ一頭くれないのです。なのに道楽息子のためには子牛を屠って祝宴を開くのです。どう考えたって不公平です。


 さらにマタイ福音書の20章の「ぶどう園の労働者」のたとえを読みました。これも輪読です。ここでもぶどう園の主人の労働者に対する賃金の支払いには不公平があります。このように話した上で、放蕩息子の父、ぶどう園の主人は、神を表していますと語り、それでは神は不公平なのか、と問題提起をします。立派に生きている人は不公平を感じ、不公平な神を信じる気持ちになれないかも知れません。あなたは、自分をどこに起きますかと問いかけました。兄の立場、朝から働いた労働者に自分を重ね合わせるのか、それとも放蕩息子、夕方から働いた労働者に自分を重ね合わせるのか。


 神は憐れみ深い方で、ある意味では不公平です。しかし、たとえとは違って、私たちは、神さまに要求できる立場にはありません。私たちは神の目に罪を犯して生きているからです。その私たちを神は顧みてくださる、憐れみ深い方です。このように語りました。自分でも熱が入っているな、と思いました。そして熱を入れて語ることのできることを語らなければいけないと思って帰りました。

→山中湖からの富士山。夏、お見舞いに出かけ、妻は友人との再会を楽しみました。