クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

罪人の再生の始まり(12)アイデンティティーの確認(聖なる者)

エフェソ1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです

 ここにはクリスチャンのアイデンティティーとして、「聖なる者」「神の子」が示されています。今回は「聖なる者」について考えます。

 「聖なる者」と聞くと私たちの心にある何らかのイメージがわいてきます。ですから「あなたは聖なる者ですよ」と言われると、「とんでもない」との答えが返ってきます。「聖人」「聖者」という言葉があり、これらは特別な人を指しています。広辞苑によると「聖者」は、「修行を積んだ信仰者、特にキリスト教で偉大な殉教者や信徒の尊称とあり、聖徒」と記されています。同じく「聖人」は「ローマカトリックで、信仰と徳の点で特に秀でた人に対し、教会が与える称号。聖徒」とあります。

 口語訳の新約聖書では、手紙の宛先人が「聖徒」と呼ばれています。

エフェソ1:1
神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。

新共同訳聖書では

神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。

 エフェソ教会の信仰者は私たちと同じような普通の平凡な信仰者です。その信仰者が「聖なる者」と呼ばれているのです。エフェソ教会は「聖者」や「聖人」からなる教会ではありません。私たちには「聖人」「聖者」のイメージがあり。これに引きずられて、私たち信仰者が「聖なる者」「聖徒」と言われると戸惑い、これを受け入れるのに困難を覚えます。「いやあ、私が聖なる者なんで恐れ多い、私は俗っぽい人間なんで」という言葉が出てきそうです。しかも聖書を読むとクリスチャンの生き方に関する教えが書かれています。たとえば

エフェソ 4:30~31
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 こういう教えを聖書で読んだりすると、これらの教えを守るのはむずかしいなあと思ってしまいます。こういう点からも、自分が聖なる者だなんてとんでもないと思ってしまいます。そして「私なんか聖なる者になれないし、なれるわけがない」と考えがちです。しかし私たちは聖書によって生きる信仰者、クリスチャンです。聖書は何と言っているのでしょうか。

エフェソ1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

コロサイ1:21~22
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

ヘブル10:10
この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 

  聖書は明らかにクリスチャンは「聖なる者で」であると教えています。聖書が告げる「聖なる者」とはどういう意味なのでしょうか。(つづく)。

 

 

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