私が説教で時々語るたとえがあります。蛙(かえる)のたとえです。もし皆さんが天国に行った時、そこにいるのはみんな蛙だったらどうするかという話しです。皆さんも蛙になっており、神さまも、イエス様も蛙だったらどうだろうかという話しです。たぶん違和感を感じるのではないでしょうか。人間の天国ではなく、間違えて蛙の天国に来てしまったと思うかもしれません。
コリント一 1:8
主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。テサロニケ一 5:23
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。エフェソ 1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
これらの聖書を読むと、私たちが天国(神の国)に迎えられると、私たちはもちろん蛙ではなく、「非のうちどころのない聖なる者」に変えられることが分かります。天国に迎えられ、そこにいる人たちがみんな「非のうちどころのない聖なる者」たちばかりだったら、どうでしょうか。自分も非のうちどころのない者にされていたとしたら、どうでしょうか。神さまも、イエス様も聖なるものとして輝いていたとしたらどうでしょうか。違和感を感じなければ幸いです。
神さまは私たちが神の国にふさわしい者となるように、この世の歩みを導かれます。神さまの願いは、私たちが聖なる者として成長していくことです。天国に迎えられた時に違和感を感じないように聖なる者を目指したいと、私は考えるのです。
私たち信仰者が、より聖なる者になることを目指し、聖なる者として成長を目指すなら、たとい時々罪を犯して失敗したとしても、天国はまだ見ぬ天のふるさとになるのではないでしょうか。
私たちが罪から解放され、少しでも罪に打ち勝ち、少しでも私たちのうちに働きかける肉の働きにも打ち勝ち聖なる者とされていくなら、きっと天国は、天のふるさとになると思います。