クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(17)聖霊を内に宿して生きる-8

 私が聖書を読み、神のご意志を知ろうとするのには理由があります。神さまは目的をもって私たちを造られたからです。神を信じるなら、その目的を知り、その目的に向かって生きるのが自然だと思います。

 聖書が教えていることを身につけ、自分の身に起こることに対して自由自在に対処できたとしても、私たちが造られた目的に向かって自由自在に生きることはできないと思います。日常生活の中で私たちがその目的に向かうためには神の導きを必要とします。神さまは導かれる、そう私は信じ、聖書を読み思いめぐらす中で神さまの導きを聞き取ります。神の御心を知っておられる聖霊が私にそれを教えてくださいます。

(1)私たちが造られた目的

エフェソ1:4~6
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

テサロニケ一5:23~24
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

 神さまは、私たちを聖なる者、汚れのない者、神の子にするというご計画を持っておられるのです。そして私たちは聖なる者、汚れのない者、神の子として日々の生活を送るのが神の御心です。そのために新約聖書には色々な戒めが書かれています。これらの戒めは、単にクリスチャンが守るべき戒めなのではなく、神の子として、聖なる者、汚れのない者として生きるためのものなのです。そして私たちは聖なる者として御国に迎えられるのです。

(2)クリスチャンの努力

 私たちは神の戒めを守って初めて、聖なる者、汚れのない者、神の子になるのではありません。もしそうだとすると、いくら努力しても罪のゆえに聖なる者になれないという敗北感がいつもつきまとうことになります。私は罪深い者であるとの思いから抜け出ることができなくなります。

 洗礼を受けた時点で、クリスチャンは、すべての罪を赦され、神の前に聖なる者、汚れのない者、神の子とされたのです。だから聖なる者、汚れのない者、神の子としてさらに成長していくのです。神さまが造られた目的に向かって進むのです。ここには一歩前進する喜びがあります。たとい罪を犯すことがあっても、罪を悔い改め、赦しを受け取ることができます。そして再び聖なる者、神の子としての歩みを始めます。

 聖なる者、神の子はクリスチャンのアイデンティティーです。このアイデンティティーに生きるために聖書を読み、自分に対する神さまのご意志、御心を聞き取りそれに従います。

(3)恵みとしての神の教え

 神さまの教えは恵みの教えです。私たちがいかに振る舞うべきかを教えてくれます。クリスチャンはクリスチャンでない人と同じ生活をします。子どもとして生き、夫婦として生き、親として生きます。結婚しない人や子どもを持たずに親として生きることのできない人はいます。人はそれぞれの仕方で他者との関わりの中で生きていきます。その時、神の教えに従うことによって、クリスチャンは世の人とは区別されます。クリスチャンの歩みには世の人の歩みと違うことが生じてきます。このような区別に生き、クリスチャンは聖なる者として歩み、父なる神の教えに従う神の子として歩むことになります。

 神の御心を知るには、それを求めるという人間の側の努力が必要であり、祈りが必要です。そして聖霊の導きとして恵みとして神のみ心を知らされます。この導きに従って歩み、私たちは聖なる者、汚れのない者、神の子として前進・成長していきます。ここに信仰者の祝福があると私は信じています。そしていつの日か、「よくやった」との神さまの言葉を聞き、御国に迎えられます。

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道しるべ 必要です