キリストに結ばれたキリスト者の特徴として、神を知り、神を喜び、神を誇ることがあります。このことを主イエスの語られたたとえが明らかにしています。そのたとえとは、ルカによる福音書にあるあの放蕩息子のたとえです。
ある人に息子が二人いました。弟息子に注目します。彼は家を出ることを望んでいます。そこで自分が相続する財産を分けてくださいと父に頼みます。父が彼の願いをかなえるや彼は受け継いだ財産をすべて金に換え、遠い国に出発します。そこで彼は放蕩の限りを尽くし受け継いだ財産をすべて使い果たします。
すると飢饉が起き、彼は生活に行き詰まります。みじめな生活を強いられます。やがて彼は気づきます。父のところでは、大勢の雇い人に有り余るほどのパンがあることを。そして家に帰る決心をします。「お父さん、私は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」と言う覚悟を持って帰ります。
彼がまだ遠くにいるのに気づいた父は彼のもとに走り寄り彼を抱きます。父は彼が帰ってくるのを待っていたのです。息子は自分の覚悟を父に語りますが、父は家に戻ると、彼に良い服を着せ、子牛を屠り、宴会を開きます。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったから」と喜び、祝宴を開いたのです。
この弟息子は父のことをどう思ったのでしょうか。父は、彼が譲り受けた財産を放蕩で使い果たしたことを責めませんでした。弟息子が息子と呼ばれる資格がありませんと言いましたが、彼を喜び、息子として受け入れました。帰ってきたことを喜び、祝宴を開いてくれました。父は彼を心から受け入れてくれました。受け継いだ財産を使い果たし、行き詰まり、どうしようもないみじめさを感じていた弟息子。どんな顔をして家に帰ることができるのでしょうか。だから「雇い人の一人として家においてください」と言いましたが、息子として受け入れてくれました。
彼は父の愛を知りました。父が憐れみ深いこと、自分のことを慈しんでくれていることを知りました。自分勝手な自分を許し、受け入れてくれる愛を知りました。彼は父がどんな人か、初めて気づきました。そして彼は、父のもとで生きることを感謝し喜びとしたと思います。
主イエスは、この父は神であり、帰ってきた放蕩息子は「あなたです」と語ります。イエス・キリストを信じ、キリストに結ばれたキリスト者は、憐れみ深く、慈しみ深い方として神を知っています。罪を犯したみじめな自分を責めることなく罪を赦し、神の子として受け入れ生かしてくださる神を知ります。そして神と共に生きることを喜びます。あの放蕩息子は自分だ、とキリスト者は告白します。
ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。ヨハネの手紙一 3:1
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
そしてキリスト者は、神さまを誇りとします。主なる神さまを誇ります。
ローマ 5:11
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
父は、帰ってきた息子を自分の子として受け入れました。弟息子は、愛に満ちた父を誇りとしたに違いありません。言うまでもなく、私も父なる神さまを誇りとしています。聖書を通して神の御心を知ることを喜びとしています。