使徒パウロは、その身に一つのトゲがあった。それはサタンが送ったものと彼は言う。そしてこれを取り除いて欲しいと神に祈ったが、
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ」
との答えを彼は得た。神はパウロの身のトゲを取り除くことをよしとされなかった。
執り成しの祈りを必要としている教会員が多い。一人一人が、重荷を負って、信仰に立って生きている。降ろすことのできない重荷、負い続けるしかない重荷がある。解決のむずかしい重荷もある。こちらから解決を求めて手を延べても、相手が手を出してくれず、どうにもならない重荷もある。たたみかけるように次から次へ重荷が重なることもある。重荷に押しつぶされそうになって、信仰を持った甲斐がないように見えることもある。
なぜ、自分が重荷を負うのか。それは分からない。人間の知り得ない神の御心があることは確かだと信じる。後になって分かるかも知れないが、御心があることだけは信じたいと思う。そして私たちの信仰は、神との交わりに生きる信仰である。神が私たちと共にいてくださることを願い、様々な願いを私たちは神に告げる。同時に大切なことは、私たちが神と共におり、私たちが神の御心を思い、神の願いに応えることである。
V.E.フランクルの『夜と霧』という本がある。ナチスの収容所の中で、生き抜いた人がなぜ生き抜けたのか、について、自分は期待されている、と考えることのできる人が生き抜いたという。自分には為すべき仕事がある、そう思うとそれが生きる力、絶望に打ち勝つ力となると書かれているらしい。若い頃読んだが、内容はすっかり忘れてしまっている。私たち信仰者はいつも、神に期待されている。信仰者としていかに歩むか、私が神と共に歩むことを神は期待しておられる。これが信仰者に生きる力を与える。そう思う。私の期待に神がいかに応えてくださるのか。神の期待に私がいかに応えていくのか。
我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。
主よ、あなたの慈しみが
我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に。