→先日、ある本を読んでいたとき、
この詩篇116編15節の言葉に出会いました。
「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」。
言葉は理解できますし、意味も分かります。
でもどういうことなのか、戸惑います。
しかし、
一度読むと覚えることができるすてきな言葉だと思いました。
また私は、死ぬときは喜んで死ぬ者でありたいと願っています。
詩編116編15節の言葉は、
何か示唆を与えてくれるように思いました。
この言葉の意味を深く知りたいと願い、説教をしたいと思いました。
死の危険から神さまに救ってもらった詩人の感謝の歌と言われます。
3節の「死の綱がわたしにからみつき、
陰府の脅威にさらされ」とは、
死が私を捕らえ、死の中に私を引きずり込もうとし、
私は死に瀕していると語ります。
いつ死んでもおかしくない、
そんな状態に詩人はさらされていました。
病気のために死がそこまで来ているのか、
それとも敵の攻撃のために死が迫っているのか、
何が原因で死にそうなのかは、私たちには分かりません。
確かなことは、詩人には死が迫っているということです。
詩人はまだ若いのかもしれません。
もっと生きたい、なのに死が迫っている、と苦しみ、
嘆いているのかもしれません。
詩人は、神さまに助けを求めます。
4節。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください」。
→そして神さまは詩人を助けてくださいました。
8節には、
「あなたはわたしの魂を死から」助け出してくださったと語り、
12節では、「主はわたしに報いてくださった」と語ります。
神さまの助けを感謝し、喜び、その上で詩人は、
神さまの助けにどう答えようかと自らに問います。
人々の前で、おそらく神殿で、
神さまに献げ物をささげようと語ります。
16節以降でも、神さまが助けてくださったので、
神さまに献げ物をしようと繰り返されています。
死の危機から神さまが助けてくださったことを感謝し、
神様に感謝の献げ物をしようと詩人は歌います。
→そういう流れの中に
15節の「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」があります。
この15節の言葉は、
前後の文脈とはかけ離れているように思えます。
宙に浮いているように感じます。
今、死の脅威から救われたのです。
詩人は生きているのです。
それなのになぜ、
「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」という言葉が出てきたのか。
なぜこのような言葉を詩人は語ったのか、
すぐには理解しがたいです。
1節で、「わたしは主を愛する」と語ります。
大胆な告白だと思います。
→「神さまを愛する」ということで忘れたくないことがあります。
イスラエルの人々が礼拝を献げる時、次の言葉が叫ばれます。
「聞け、イスラエルよ。
我々の神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、
主を愛しなさい」。
イスラエルの人にとって主なる神を愛することはとても大切なことでした。
神さまはイスラエルの民に戒めをお与えになりました。
その代表的なものはモーセの十戒と呼ばれる戒めです。
神を愛するとは、心から自ら進んで神さまの戒めを守ること、
そして神さまに信頼することと説明できると思います。
この詩人は、生命の危険に関わる事態に直面し、
神さまに助けを求めて祈り、神さまに助けてもらう経験をしました。
→さらにこの詩人は、
「主は憐れみ深く、正義を行う」と語り、
「わたしたちの神は情け深い」と語り、
「神は哀れな人を守ってくださる」
「弱り果てた私を救ってくださる」と神さまについての信仰を告白しています。
神さまの人格への信頼があります。
言い換えると彼は神さまを愛しているのです。
→さらに詩人は、
「主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう」と語ります。
自分の身に何が起きようと、主に信頼し、
主に助けを求めて生きていく、
との信仰を告白しています。
→さらに9節では、
「わたしは主の御前に歩み続けよう」と語ります。
詩人は、神さまを意識して生きるのです。
神さまの視線を意識して生きるのです。
神さまを畏れ敬い、また自分を愛し、
共にいてくださる神さまに信頼して生きると告白しています。
素晴らしい信仰者です。
その詩人は、
「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」と語ります。
口語訳聖書では「聖徒」と訳されています。
英語の聖書では、saints 聖徒と訳されています。
ヘブル語では、敬虔な人、信仰深い人の意味です。
私は新共同訳聖書の「主の慈しみに生きる人」という訳を好ましく思いました。
「聖徒」とか「敬虔な人」といっても抽象的で、
どんな人かわかりにくいです。
詩人は、神の慈しみに生きると、
信仰者のことを少し具体的に語ります。
詩人自身が、
神さまの慈しみに生きている人と言ってよいと思います。
→神さまは、自分がいかなる方かを自己紹介したことがあります。
出エジプト記24章において、神さまはモーセにこう宣言します。
「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す神」。
慈しみとは、相手を大切に思う心です。
私たちは、イエス・キリストが十字架で処刑され、
イエス様が私たちの身代わりとなって死に、
私たちの罪の償いをしてくださったと信じます。
イエス・キリストの十字架の死に、私たちは神の愛を見る者ですが、
神さまは、罪を犯し、神さまに逆らうような私たちを慈しみ、
私たちを救ってくださいました。
私たちもまた、神さまの慈しみを受けて生きる者とされています。
「価高い」とは、非常に価値がある、との意味です。
神さまの目に、とても価値あるものだというのです。
主の慈しみに生きる人の死が、神の目に
とても価値があるというのは、少々わかりにくいです。
→死、それは一人の人間の人生を終わらせます。
人生が終わることが何故、価値あることなのでしょうか。
信仰を貫くために殉教の死を遂げたというなら、
その死には意味があり、価値があると言えると思います。
でもここは、そのような特別なケースを想定はしていません。
神の慈しみに生きる人の死、なのです。
神の慈しみに生きる人は、病気で死ぬかも知れないし、
寿命が尽きて亡くなるかも知れないし、
事故で亡くなるかも知れないし、人それぞれです。
なぜ、その死が尊いのでしょうか。
→死によって人生が終わるので、
主の慈しみに生きる人の人生そのものが価高い、
価値があるということなのでしょうか。
もしそうだったら、そのように言えばいいのであって、
「死」という言葉を
使わない方が、分かりやすいと思います。
→15節、「主の目に価高い」とあります。
主なる神は、主の慈しみに生きる人を天からご覧になっています。
主の慈しみに生きる人が死に行くのもご覧になっています。
神さまはどんな思いで見ておられるのでしょうか。
→牧師になって間もない頃、
クリスチャンホームで育った一人の青年女子が、言いました。
「私は天国に行けることを無条件で信じています。
少しも疑いません」。
主の慈しみに歩み、このような信仰をもって
亡くなろうとしている人を神さまがご覧になったらどう思われるのでしょうか。
きっと喜ばれると思います。
→ある人は、イエス様を信じているので神の国に迎えられることを
頭では信じていますが、本当に神の国があるかどうか、
確信を持てないでいます。
積極的に疑うことはしませんが、確信が持てず、
不安が心にあります。
死が迫るなかで、心が騒ぐのです。
しかし信仰者です。
自分が不安で心が騒ぐのを静めてください、
平安を与えてください、と祈るのです。
「信仰の弱い私を憐れんでください」と祈るのです。
この人をご覧になって神さまはどう思われるのでしょうか。
神さまは、きっと喜ばれると思います。
何らかの形で信仰の生涯を閉じようと自覚的に生きるのです。
以前牧会していた教会で、ある年配の教会員の方が入院しました。
私がお見舞いに行ったとき、大きな声で
「私は天と地を創造された神さまを信じます。私は・・・」と告白されました。
信仰の告白をしたのです。
私は驚きました。
この方は自分が信仰者であることの証しをなさったのです。
聖書には、何人もの人が、自分の死を前にして
自覚的に行動している人がいます。
紹介します。
→創世記48章にヤコブが登場します。
彼は息子のヨセフに語ります。
「間もなく、わたしは死ぬ。
だが、神がお前たちと共にいてくださり、
きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる」。
まさに死のうとしているヤコブが神の約束の証言をしています。
神はヤコブの祖父であるアブラハムに、
あなたを大いなる国民にすると約束し、
またあなたの子孫にこの土地を与えると約束しました。
ヤコブはエジプトで今、死のうとしているのです。
ヤコブは神の約束をヨセフに語るのです。
→あるいはモーセです。
イスラエルの民が奴隷としてエジプトの国で苦しんでいたとき、
モーセは神さまに選ばれ、イスラエルの指導者となりました。
神さまは大いなる力を発揮し、
イスラエルの民をエジプトから救い出します。
神はイスラエルの民を自由に生きることのできる土地へと導きます。
モーセは指導者として民を導き、民をその土地に連れて行くのです。
そのモーセがイスラエルの民に語ります。
「わたしは今日、既に百二十歳であり、
もはや自分の務めを果たすことはできない。
主はわたしに対して、
『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた。
あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、
あなたの前からこれらの国々を滅ぼして、それを得させてくださる。
主が約束されたとおり、ヨシュアがあなたに先立って渡る。
強く、また雄々しくあれ。
恐れてはならない。
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。
あなたを見放すことも、見捨てられることもない」。
モーセはヨルダン川を渡ってイスラエルの民を約束の地に連れて行くことができなくなりました。
しかしヨシュアが率いて約束の土地に入ることができるから、
恐れず勧め、と民を励ましたのです。
→今日読んでいただいた新約聖書は、
死を間近にしたパウロの言葉です。
「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。
世を去る時が近づきました。
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、
信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。
正しい審判者である主が、
かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」。
→死を前にしたパウロは、自分は神の国に迎えられ、
義の栄冠を受けるとの確信を語ります。
イエス・キリストと出会って以来、
イエス・キリストを宣べ伝えるために働いてきたパウロは、
義の栄冠を受けることができるとの喜びに満ちた確信を語ります。
さらに続けて語ります。
「しかし、わたしだけでなく、
主が来られるのをひたすら待ち望む人には、
だれにでも授けてくださいます」。
このパウロの言葉は、
主の再臨を待ち望む私たちもまた義の冠を授けていただけるとの言葉です。
励ましの言葉です。
死を間近にしたパウロは、
「あなたも、義の冠を授けられます」と励ますのです。
パウロは最初はクリスチャンを迫害していました。
しかし神様の憐れみを受け、その罪を赦され、
キリストを宣べ伝える使命を与えられた人物です。
彼もまた神の憐れみを受け、慈しみを受けた人でした。
同じように、私たちもまた、「義の冠を授けられますよ」と、
パウロは励ましの言葉を語りました。
→主の慈しみに生き、死を前にした人は、神を証しする人として、
行動することができるのです。
このように、
自覚的に生きる信仰者の最後を神さまがご覧になったら、
どう思われるでしょうか。
きっと喜ばれると思います。
→神の慈しみに生きる人は、
それぞれの仕方で、信仰をもって最後を迎えるのです。
その時、主の慈しみに生きる人の死を、
価高い死と神さまはご覧になっているのです。
私たちは、だれにも看取られずに死ぬとしても、
神さまはみておられます。
詩編116をつくった詩人が何故、15節の言葉を書いたのか、
正確なことは分かりません。
でもこの言葉があるおかげで、
私は神さまの見守りのなかで、
喜んで生涯を終えることができると知りました。
うれしく思います。
祈ります。